他人のことを「理解した」と信じて疑わないのは、
そもそもの対人関係が萎え干乾びている者だけである。
──H.S.サリヴァン『精神病理学私記』阿部・須貝訳
現実の他者は、まず、私に対して、たえず他なる主権的他者(他格)として
自らを表現しつつ向き合ってくる存在である(たとえ、いたいけな子どもであっても)。
すなわち、その表情、言葉、振る舞い、行為を通して、つねに一つの意志、感情、人格、
あるいは精神として、その主格性、内的主権性を私に現わす。
そのことで他者は、私に対して要求-応答関係を開く存在となる。
他者はそうした仕方で内的主権性を表出してくるが、
しかしそのことで存在の全体を示すことは決してない。
──竹田青嗣『新・哲学入門』2022
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非知性、未知性、不可知性、知られざる全域性
測りがたさ、汲み尽くしがたさ、そしてその相互性
相互に隔絶して生きる存在同士であること
お互いがお互いにとって他者であることの了解
この了解に留まることを拒む心は開始する
すなわち互いにそうであることの乗り超えの試行
心はみずからに開口部をあつらえ
他者へ向かうルート、ことばの通り道を開く
ことばに託されたシグナル群と交換ルートの敷設
相互の試行が合流するという確信の訪れを求めるように
切り開かれていくことばの応答と交歓の位相がある