──竹田青嗣『欲望論』第一巻
ベルクソンの「記憶」の概念は、生命体に何らかの感覚、意識、感受、
つまり「内的体験」があるとすれば、それはすなわち世界の時間化として
了解されるものであることをよく表現している。
最も根源的な出来事としての世界感受という事態……
「内的体験」の本質は、どんな意味でも現代の認知科学が求めるような
事物的因果性との交換式をもたない。
哲学はこの内的体験の様相を、多く、明るみや閃きの比喩によって、
あるいは同一、否定、区分、差異の概念によって形式論理化してきた。
われわれはそれを「エロス的力動」の概念によって再編する。
欲望が告げ知らされ、一つの欲求-衝動が開始されるや、
主体が突き動かされ、引きつけられ、接近をめがける努力を開始する。
ここに「身体」の本質が、すなわち対象との求心的-遠心的力動の
可能態としての「身体」の本質がある。
生き物はつねにすでにエロス的力動の可能態としての身体である。
一切の生き物は、衝動、欲求によって世界を時間化し、
また「身体」において世界を空間化しつつ生きる。
われわれはこういわねばならない。
「過去・現在・未来」が「ある」は「実在する」ではなく、
「現前意識」のうちで構成される「世界」の現出の秩序性であると。