関係世界における〝多様性〟という価値
なぜ、それが積極的な価値でありうるのか
一つの答え──
異質な存在が交わり、生まれる享受可能な〝関係〟の多産性
さまざまな対話、表現、その多重記述(相互触発)のエロス的生成
(いいかえると、〝関係〟という個に帰属しない第三領域の豊饒化)
しかし、多様性はそれ自体みずから支えることができない価値でもある
多様性はそのまま放置すれば、たやすく敵対関係へ転化する
異質な存在どうしのせめぎあい、相互否定、削り合い、殺し合い
多様性が価値として生かされるには、それを支える必須の条件がある
手当なく、放置したまま「多様性」を唱えることは無責任でしかない
──竹田青嗣『言語的思考へ』
「ヘーゲルはまた、ルソーが「一般意志」の概念で示した「法」と市民の関係についての基本原則を、
「自由の相互承認」という概念によっていっそう本質的なかたちで示した。
ヘーゲルは、人間は「自由」であるとか、自由であるべきである、とは言わなかった。
彼の設問は、人間の「自由」というものが社会的に実現されるとすれば
その制度的な本質的な条件はなにか、というものだった。
各人が、その所有するさまざまな諸差異にかかわらず、相互に他者を、
個人としての「自由」(自己決定権限)をもった自立した存在として
公共的に承認しあう場合にだけそれは可能になる、というのがその答えである」