Backstageはつねに作動している。
この作動は構造的な十全性、構造的一貫性を維持しながら進行している。
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「知」(関係項)の外部入力はそのままではBackstageの新たな資源とはならない。
そのままでは新たな経験のモードを生まず、むしろ干渉的なノイズとして片付けられる。
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「静止画」をどんなに集めてもそのままでは「作動画」には移行しない。
アニメーションへの移行は「静止画」を統一的にまとめる全体包括的な意味の生成を条件とする。
同様に、単なる「知」の外部入力はBackstage自体の構造的な再構成のトリガーを引かない。
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構造的な再構成はBackstageみずからの了解と納得、意志を経てはじめて可能になる。
「知」が実効的にリンクされ再構成の資源となるには内的な検閲に適わなければならない。
より本質的には、Backstage自身の新たな「存在可能」(ありうる)の感知を条件とする。
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この原理が不在のまま外部入力された「知」が支配的に動くとき、Backstageは檻に入れられ隔離される。
すなわちBackstageの主体性、主権的主体の強奪、放棄、喪失においてなされる外部入力。
Backstageに対する抑圧による「関係項」(客観化された世界記述)の支配の全域化。
いいかえると、「知に毒される」ということの意味本質がここにある。
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「知」をめぐるこうした事態にもかかわらずBackstageはつねに独立性を保つように作動する。
その現実的展開は内なる不和として現象し、外部には一種の「醜態」として現象する。
どんな「知」の権威的な、規範的な教唆にも動じない姿勢を保ちながら、
Backstagehaはみずからの「了解と納得」を刻む方向をめざして動いていく。
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「了解と納得」という内的な特異点をめがける世界経験の地平、
世界生成の内なるFactoryはみずからの存在原理から外れることはない。
Backstageの声ならぬ声をよく聴くこと──
新たな経験のモード形成は、「知」へリンクを伸ばしながら、
「知」の系とは別の原理、Backstageとの共通の「了解点」の創出を条件とする。