「思考するオフィス」(精神労働)と「思考しない工場現場」(肉体労働)という架空の分離、
労働者を道具を調整する人から、機械の流れを維持する「装置」に変化させた仕事の細分化、
「確実で速いこと」を最上位の価値とする仕事の「ファストフード」化、
選択すべきことが最初から決まってしまっている環境の「メニュー」化があらゆるところで進んでいる。
「現代の仕事場では経験が衰退」しているのである。
――佐々木正人『ダーウィンの方法』2005年
「あなたの住む世界?」
「そうです」
「ついに出たね、怪しげな本性が」
「神秘めかすつもりは一切ありません」
「あなたは何様のつもりなの」
「如来とお呼びください」
「如来さん、あなたは一体どんな世界に住んでるの?」
「あなたと同じ世界です」
「でしょうねえ」
「まちがいありません」
「でもちがうわけでしょ」
「ちがうけど同じです」
「バカにしてる?」
「いいえ。まったく」
「現状が深刻とおっしゃいますが、それとこれとどう関係するの」
「コトバの使用法とその過信です」
「コトバがどうって?」
「区切り方がまちがっています」
「例の温度設定の話?」
「はい。二重のまちがいがあります」
「どんな?」
「一つは設定エラー。つまり、設定値の陳腐化があります」
「もう一つは?」
「設定思想。いいかえると、傲慢さです」
「手短にまとめて説明して」
「結論からいえば、環境の変化とズレて、全体が不適応に陥っています」
「たとえば?」
「憎しみ、悲しみ、苦しみ、怒り、むなしさ、病いが深く広がっています」
「だから?」
「巨大な悲劇がまた訪れるかもしれません」
「戦争?」
「真綿で絞められるような緩慢な死の可能性もあります」
「立ち直るチャンスはゼロじゃないでしょ」
「マンモスが滅びたように、特定の変数に淫した生物種は滅びます」
「巨大化しすぎた牙ですか。人間にとってのその種の牙があるの?」
「大脳です。大脳という変数の肥大化、暴走といってもいい」
「考える葦じゃないの、人間は」
「そうですが、とりかえしのつかない暴走を秘めます」
「なぜだろう」
「大脳による〝ムカデの演算〟です。コントロール能力への過剰依存、自信過剰です」
「科学信仰とかいう問題?」
「本来あるべき科学とは異なる、科学もどきへの耽溺ともいえますが」
「抽象的すぎるね。ずばりどうすればいいのよ」
「じゃあ、ずばりで」
「はい、どうぞ」
「わたしの世界とのリンクが切れているのです」
「あなたは神か?」
「いいえ」
「ああ、びっくりした」
「つづけましょう」
「どうリンクが切れるのかな?」
「第一には、大脳が暴走すると、生命システムの全域に歪みが生まれます」
「なぜ?」
「生命の母体から遊離してしまうからです」
「あなたは生命の母体なの?」
「わたしは、一つの記号とお考えください」
「生命の母体かと思った」
「そんなことはありません」
「冗談に決まっているでしょ」
「例を挙げます」
「どうぞ」
「音楽で複数の演奏者が協力して演奏することをアンサンブルといいます」
「はい」
「いわば一つの演奏のネットワークの形成です」
「演奏のネットワーク」
「演奏者同士の呼びかけと応答が次々に連鎖することで、一つの音楽が出現します」
「それはそうでしょう」
「一つのシステムとも考えることができます」
「それがリンクの問題と関係するの?」
「まさに。このシステムに加わることで、演奏者の設定値が変化します」
「どんな設定値が、どう変化するの?」
「音の連なりを聴く演奏者の精神が、アンサンブル全体へ拡大します」
「音の連なり?」
「情報といってもいいです」
「どういうことかな」
「アンサンブル全体が一つの情報回路を形成され、演奏者の精神がそれと一体化します」
「それがどうしたの」
「ポイントは、ソロとは異質な音楽体験が演奏者に開かれるということです」
「どんな?」
「アンサンブルには失敗もありますが、めざすのはハーモニーという体験です」
「調和?」
「ええ。このとき、各演奏者はハーモニーをめがけ、みずからをチューニングしていく」
「ハーモニーって何だろう」
「単なる観念でも物質でもない。次元を特定できない、体験の母体というしかないものです」
「また出た。体験の母体ねえ」
「演奏者はそれとリンクすることで、ソロとは異質な音楽のよろこびに導かれる」
「そうでしょうが、ここから何が引き出せるの?」
「音楽のアンサンブルは参加も離脱も自由ですが、そうでないものがあります」
「何?」
「生命として生きるということです」
「ほう」