*
「『ここからの出口がどこかにあるはずだ』とジョーカーは盗人に向かって言った」
〝There must be some kind of way out of here.〟said the joker to the thief. (「All Along the Watchtower」Bob Dylan )
*
「接続エラーⅣ」
すでに授業が始まっていた。
「どうしたんだ」
入口のドアを開けると同時に、教師の視線が突き刺さった。
教室の空気が一気に変化したのがわかった。
教師は視線を逸らすことなく、低い声でオレにもう一度訊いた。
「どうして遅れたんだ」
ライトグレーのスーツに茶褐色のネクタイ。刈り上げた頭には白いものが混じっている。
経験を積んだいかにも教師らしい余裕が全身を包んでいた。
「車に轢かれた子猫が道端で死んでいて、あんまり可哀相だと思ったので、泣きながら埋めてやりました」
張りつめた空気が一瞬揺らいで何人かが少し笑ったが、教室は空々しい空気が支配していた。
教師のこめかみが膨らむのが見えた。この科白は効果的だった。前にもそっくり同じセリフを言ったことがあった。
その時には、曖昧に無視された。下手な冗談として許してやるという態度だった。しかし、今日はちがっていた。
「この問題を解いてみろ」
教師は黒板に書かれた数式を指さして、挑発するように威圧的な声でオレに命令した。
オレはバカバカしかったが、黒板の前に歩いていって、
外国人のように両手を広げたちびまる子の絵を書いて、横に『わかんない』と吹き出しを付けた。
オレは同じポーズで肩をすくめてみせた。もう誰も笑わなかった。
教師の眼にははっきりと憎悪が滲んでいた。教師は間髪いれずに、オレの胸ぐらをつかんで足払いを掛けてきた。
不意を喰らったオレは床に背中から落ちて、頭を強打した。
痛みがひどくて、オレは一瞬状況を見失った。頭が真っ白になって世界がぐるぐる回っていた。
すぐに悔しさと怒りがこみ上げてきたが、それもすぐに痛みの渦にまぎれてしまう。
頭を抱えて横になりながら、冷たい床の感触だけが変にリアルな感じがした。
女生徒たちの悲鳴と、その後の重い沈黙が遠くにあった。
「おい、勘違いするなよ。舐めたことしやがって」
教師のドスのきいた声が頭の上から響いた。
吐き気を感じて苦しかったが、教師の陳腐なセリフがオレに余裕を与えた。
この男はオレが考えているとおりの人間だと思った。
本気で喧嘩を買うつもりだ。だからきちんと応えなくちゃいけない。
オレは十分に呼吸を整えてから反撃を開始した。
わざと時間をかけて立ち上がり、制服についた埃を払いながら、いきなり急所を蹴り上げた。
手応えは十分だった。教師がうずくまると、素早く脇腹に思いきり蹴りを入れた。
ごろんと教師は丸まりながら床に転がった。呼吸が止まったように身動きでないでいた。
もうこれが最後だという感じで、オレは男の顔面にもう一蹴り入れた。
その時、ようやく臨界点に達したように教室の重い沈黙がはじけた。
「殺す気か」「バカヤロウ」「やめて」「死ぬぞ」「救急車を呼べ」
怒号や悲鳴や生徒が走り回る響きが渦巻いていた。
けれどもオレは容赦しなかった。
教師の襟首をつかんで教壇の上に仰向けにしてから、ネクタイをつかんで思いきり首を締め上げた。
顔がみるみる充血していくのが見えた。教師は苦悶のなかにまさかという驚きの表情をみせた。
醜く膨らんだ形相には、教師としての威厳も誇りも消えていた。まるでブタだな。
さらにオレは一度ネクタイを緩め、二重巻きにして両端をつかみ、立ち上がるようにして渾身の力で引っ張り上げた。
断末魔のようなうめき声が漏れた。
ふとオレは、これは夢かもしれないと思った。
どうしてこんなことをしているのだろう。
その瞬間、後頭部に灼熱を感じて気を失った。それが最後だった。
感情も感覚も凍りついて、永遠に溶け出さない氷に閉じ込められている感じがする。
しかし寒さも暑さも何も感じない。死んだ人間のようだ。
視線は中空を浮遊したまま、焦点を結べないでいた。勝手に眼球が動いているだけだ。
脈絡を喪失して、バラバラになった風景や事物が網膜のスクリーンを散乱したまま通りすぎていく。
全体を関連づけるどんな意味も消えていた。
この状態からどんなふうに抜け出したらいいんだろう。
一切の手掛かりが消えていた。
けれども、オレはこれでいいと思っていた。
理不尽にこみ上げる焦燥に苛まれながら、
オレは自分の意思をどこへ向けていいかわからなかった。
求める心は臨界に達しようとしているのに、
言葉も意味もイメージも、向かうべき場所も見当たらない。
思考は焦点を結べずに揺れていた。
それでも、オレの心は微塵も疑っていなかった。
説明できないものを、いい加減に説明してのぼせ上がり、
みんながみんな同じエサを欲しがると思い込んだバカがいる。
バカは自分が信じていない言葉を使う。
バカは誰もが同じ種類の人間だとタカをくくっている。
同じ仲間のつもりで、じぶんのいる檻に他人を閉じ込めようとする。
据え膳喰らって生きたければそれでいい。
勝手にすればいいが、オレにも囚人になれと命令する。
誰に向かってものを言っているか、わかっているのか。
無理矢理に囚人の仲間にするための権力を許す訳にはいかない。
このまま殺されてもかまわないが、自分から始末をつけるつもりはない。
反省も後悔もない。腐り果てた囚人たちには理解できないだろう。
滅ぼしたければ滅ぼせばいい。その前にオレが滅ぼしてやる。
オレに構うなと言っただけなのに、土足でオレに向かってきた。
滅ぼそうとする相手には礼を返すだけだ。それ以上でも以下でもない。
手心を加えるつもりは最初からなかった。覚悟がちがうんだよ。
巨大なエネルギーの波がなんどもなんども押し寄せてくる。
太陽とこの星の青空と大地と海と、人間の土地の一切合切が、
一つの心臓のようにリズムを刻んでいる。
妄想だろうか。錯乱だろうか。この感じは言葉にできない。
惑星の気圏を突き抜け、この宇宙全体が歌を歌っている。
ケダモノのオレは意味をなさない咆哮を張り上げる。
オレはオレだけに聴こえる声を聴いている。
オレはいまどこにいるのだろう。
猛烈な渇仰が心を引き裂いていく。
何かに向かってぶちまけたいが、一体何を、どこに向かってなのか。
感情は力のかぎり駆け出したいと願うのに、向かうべき場所がわからない。
けれども誘引は圧倒的だ。
ここにこうしていることだけで、何かが胸に迫ってくる。
ここにこうしているだけで、こぼれ出し、溢れていくものがある。
ぶちまけるものも、ぶちまける対象もまったくわからないが、
こみ上げるエネルギーの塊を、オレは心の底から信じていた。
オレは本当に狂っているかもしれない。
しかしオレは、それがオレを決して否認しないことを知っていた。
*
「『ここからの出口がどこかにあるはずだ』とジョーカーは盗人に向かって言った」
〝There must be some kind of way out of here.〟said the joker to the thief. (「All Along the Watchtower」Bob Dylan )
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「接続エラーⅣ」
すでに授業が始まっていた。
「どうしたんだ」
入口のドアを開けると同時に、教師の視線が突き刺さった。
教室の空気が一気に変化したのがわかった。
教師は視線を逸らすことなく、低い声でオレにもう一度訊いた。
「どうして遅れたんだ」
ライトグレーのスーツに茶褐色のネクタイ。刈り上げた頭には白いものが混じっている。
経験を積んだいかにも教師らしい余裕が全身を包んでいた。
「車に轢かれた子猫が道端で死んでいて、あんまり可哀相だと思ったので、泣きながら埋めてやりました」
張りつめた空気が一瞬揺らいで何人かが少し笑ったが、教室は空々しい空気が支配していた。
教師のこめかみが膨らむのが見えた。この科白は効果的だった。前にもそっくり同じセリフを言ったことがあった。
その時には、曖昧に無視された。下手な冗談として許してやるという態度だった。しかし、今日はちがっていた。
「この問題を解いてみろ」
教師は黒板に書かれた数式を指さして、挑発するように威圧的な声でオレに命令した。
オレはバカバカしかったが、黒板の前に歩いていって、
外国人のように両手を広げたちびまる子の絵を書いて、横に『わかんない』と吹き出しを付けた。
オレは同じポーズで肩をすくめてみせた。もう誰も笑わなかった。
教師の眼にははっきりと憎悪が滲んでいた。教師は間髪いれずに、オレの胸ぐらをつかんで足払いを掛けてきた。
不意を喰らったオレは床に背中から落ちて、頭を強打した。
痛みがひどくて、オレは一瞬状況を見失った。頭が真っ白になって世界がぐるぐる回っていた。
すぐに悔しさと怒りがこみ上げてきたが、それもすぐに痛みの渦にまぎれてしまう。
頭を抱えて横になりながら、冷たい床の感触だけが変にリアルな感じがした。
女生徒たちの悲鳴と、その後の重い沈黙が遠くにあった。
「おい、勘違いするなよ。舐めたことしやがって」
教師のドスのきいた声が頭の上から響いた。
吐き気を感じて苦しかったが、教師の陳腐なセリフがオレに余裕を与えた。
この男はオレが考えているとおりの人間だと思った。
本気で喧嘩を買うつもりだ。だからきちんと応えなくちゃいけない。
オレは十分に呼吸を整えてから反撃を開始した。
わざと時間をかけて立ち上がり、制服についた埃を払いながら、いきなり急所を蹴り上げた。
手応えは十分だった。教師がうずくまると、素早く脇腹に思いきり蹴りを入れた。
ごろんと教師は丸まりながら床に転がった。呼吸が止まったように身動きでないでいた。
もうこれが最後だという感じで、オレは男の顔面にもう一蹴り入れた。
その時、ようやく臨界点に達したように教室の重い沈黙がはじけた。
「殺す気か」「バカヤロウ」「やめて」「死ぬぞ」「救急車を呼べ」
怒号や悲鳴や生徒が走り回る響きが渦巻いていた。
けれどもオレは容赦しなかった。
教師の襟首をつかんで教壇の上に仰向けにしてから、ネクタイをつかんで思いきり首を締め上げた。
顔がみるみる充血していくのが見えた。教師は苦悶のなかにまさかという驚きの表情をみせた。
醜く膨らんだ形相には、教師としての威厳も誇りも消えていた。まるでブタだな。
さらにオレは一度ネクタイを緩め、二重巻きにして両端をつかみ、立ち上がるようにして渾身の力で引っ張り上げた。
断末魔のようなうめき声が漏れた。
ふとオレは、これは夢かもしれないと思った。
どうしてこんなことをしているのだろう。
その瞬間、後頭部に灼熱を感じて気を失った。それが最後だった。
感情も感覚も凍りついて、永遠に溶け出さない氷に閉じ込められている感じがする。
しかし寒さも暑さも何も感じない。死んだ人間のようだ。
視線は中空を浮遊したまま、焦点を結べないでいた。勝手に眼球が動いているだけだ。
脈絡を喪失して、バラバラになった風景や事物が網膜のスクリーンを散乱したまま通りすぎていく。
全体を関連づけるどんな意味も消えていた。
この状態からどんなふうに抜け出したらいいんだろう。
一切の手掛かりが消えていた。
けれども、オレはこれでいいと思っていた。
理不尽にこみ上げる焦燥に苛まれながら、
オレは自分の意思をどこへ向けていいかわからなかった。
求める心は臨界に達しようとしているのに、
言葉も意味もイメージも、向かうべき場所も見当たらない。
思考は焦点を結べずに揺れていた。
それでも、オレの心は微塵も疑っていなかった。
説明できないものを、いい加減に説明してのぼせ上がり、
みんながみんな同じエサを欲しがると思い込んだバカがいる。
バカは自分が信じていない言葉を使う。
バカは誰もが同じ種類の人間だとタカをくくっている。
同じ仲間のつもりで、じぶんのいる檻に他人を閉じ込めようとする。
据え膳喰らって生きたければそれでいい。
勝手にすればいいが、オレにも囚人になれと命令する。
誰に向かってものを言っているか、わかっているのか。
無理矢理に囚人の仲間にするための権力を許す訳にはいかない。
このまま殺されてもかまわないが、自分から始末をつけるつもりはない。
反省も後悔もない。腐り果てた囚人たちには理解できないだろう。
滅ぼしたければ滅ぼせばいい。その前にオレが滅ぼしてやる。
オレに構うなと言っただけなのに、土足でオレに向かってきた。
滅ぼそうとする相手には礼を返すだけだ。それ以上でも以下でもない。
手心を加えるつもりは最初からなかった。覚悟がちがうんだよ。
巨大なエネルギーの波がなんどもなんども押し寄せてくる。
太陽とこの星の青空と大地と海と、人間の土地の一切合切が、
一つの心臓のようにリズムを刻んでいる。
妄想だろうか。錯乱だろうか。この感じは言葉にできない。
惑星の気圏を突き抜け、この宇宙全体が歌を歌っている。
ケダモノのオレは意味をなさない咆哮を張り上げる。
オレはオレだけに聴こえる声を聴いている。
オレはいまどこにいるのだろう。
猛烈な渇仰が心を引き裂いていく。
何かに向かってぶちまけたいが、一体何を、どこに向かってなのか。
感情は力のかぎり駆け出したいと願うのに、向かうべき場所がわからない。
けれども誘引は圧倒的だ。
ここにこうしていることだけで、何かが胸に迫ってくる。
ここにこうしているだけで、こぼれ出し、溢れていくものがある。
ぶちまけるものも、ぶちまける対象もまったくわからないが、
こみ上げるエネルギーの塊を、オレは心の底から信じていた。
オレは本当に狂っているかもしれない。
しかしオレは、それがオレを決して否認しないことを知っていた。
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