8日午後零時半。東京・秋葉原の電気街で無差別殺人通り魔事件が発生した。犠牲者は七人にも昇った。
犯人は24歳の派遣社員で青森県トップクラスの進学校を卒業した人間である。
厭なことであるが近年、この種の無差別殺人事件が頻発している。
犯人像としては、周囲の人たちが信じられないほど普通の人であったり、おとなしい人であったりする。過去においては使命感や責任感はむしろ強い人であったりしている。そして、社会からドロップアウトしそうな状況の青年たちである。
アジアのメデイアがいち早くこの事件を解説した報道をしている。「長く生きても希望や展望がもてない若い人が多いのではないか、派遣社員が増えて隣で働く人とのつながりも薄れ団結して戦う相手も見えにくくなっている。」韓国・東亜日報。
「日本は個人同士のコミュニケーションが少なく、悩みを心の中にためてしまう。それが爆発して、一部の人が理解しがたい事件を起こすのではないか」香港フエニックスTV。
さすがにと言うのかようやくと言うのか、日本のメデイアもこの線に沿った報道・解説が始まりつつある。舛添厚労相も労働者派遣法の問題点に言及し、法改正をシブシブ言い始めた。
これらの動き自体は歓迎するところである。
かって小泉首相は「格差があって何故悪い」と嘯いていた。それは、今までにも十分にあった労働者間の”格差”を必要以上に取り込もうとした経済界や政府の国民収奪のプロローグであった。
アメリカのように多民族・多言語・多宗教のモザイク国家ならばいざ知らず、単一民族・単一言語国家(アイヌの先住民認識を否定はしない)の日本にあってはご都合主義的なグローバル化のもとに工作された格差社会は必要以上なものであり有害である。
結果の平等と機会の平等をご託宣する、御用学者・評論家・経済人と浅薄な信奉者は「国家の品格:藤原正彦著」を読めば良い。
多くの若者は安定した気持ちで一生懸命働きたいと願っているのである。マスコミもほんのごく一部の若者のニート・フリーター志向を過大に報道し、底流にある本質を隠すべきではない。
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