イワン・アサノヴィッチの一日  畑と映画の好きな卒サラ男。

政官業癒着体質の某公共事業職場を定年退職。鞍馬天狗・鉄腕アトムの人類愛に未だに影響を受けっ放し。孫には目がない。(笑い)

「そのまんま東」現象に思う

2007-04-29 01:22:00 | 国際・政治

知人が今回の統一地方選挙で県会議員に当選した。

無所属で現職自民党に対抗する形で立候補したが、途中で民主党が付け焼き刃で公認候補を擁立し、選挙民にとっては争点の見えない選挙となった感がする。

当選後の集会で新県議は『自分は「そのまんま東」現象を訴え当選した。政治的閉塞を打破したい』と講演した。

全国的にも民主党の議席上の躍進が報じられている。また一方で投票率はさほど上がらず、自民離れ・政党離れの傾向は依然と続いているとも報じられている。

このことは、政治的閉塞感を持った多くの国民が本当は棄権したいぐらいだが取り敢えず投票所には足を運び、もう与党自民党には希望が託せないから次善の策で民主党に、という、一種やるせない構図のように推測出来る。

二大政党選挙の構図と結果の出方は似ているが誤解してはいけないように思われる。低すぎる投票率が上がらないままの、民主党の相対的な躍進など、決して二大政党制・政党選挙の定着などではあり得ないと思う。

政府は「世は、いざなぎ景気を超える好景気の更新中」と喧伝するが、多くの国民は格差拡大の渦に飲み込まれようとしている。

そこに従来の与党支持者に留まらない国民の多数が政治的閉塞(=政党離れ・自民離れ・投票率低迷・争点不明確)を感じるのは当然のことと思われる。

かかる政治的・社会的状況の中で、もう一つの現象が生まれつつあると思われる。

なにかをやってくれるかも知れない「そのまんま東」現象に最後の希望を託そうとする、半ば切ない選挙民の付託である。

気を付けねばならない。これは「最後の付託」なのである。

第1次世界大戦で疲弊したドイツ国民は、政治的閉塞を破るかの如き登場したヒトラーに雪崩打つように支持を与えたのである。

当時、ユダヤ迫害を一時中断し、派手にオリンピックを開催した人間は、巧妙に閉塞感に打ち拉がれた多くのドイツ国民の「気分と感情」を手中にした。

東京にも石原某という似た人間が居る。

私たちは政治的閉塞感の中でヒトラーと「そのまんま東」を取り違えてはならない。


相次ぐ、銃撃事件に思う

2007-04-22 23:12:21 | 国際・政治

  アメリカの大学構内で学生が32人銃殺された事件と同じ日に、長崎市長(伊藤一長氏)が銃で撃たれ死亡した。

核の問題は国の問題で長崎市の問題ではないとしていた市長だったが、やがて反核を国際会議で訴えるようになった人であった。

銃で、暴力で、力で、権力で、物事の決着を付けられる筈の世の中ではないにも拘わらず、こういう事件が時に発生する。これは反面、暴力や権力で物事の決着を図る思想がいまなを存在することの証左なのである。

自民党の加藤紘一氏が『こういうことがあったからと言って、発言を控える世の中にしては行けない。』と発表している。同感である。しかし自民党は国会内で強行採決や省庁に対して権力的な振る舞いをすることが往々にしてある。

また、地方の同党勢力は相まって、自治体の人事に横暴的な権力を当たり前のように,いまなを行使もしている。

女性知事と与党大幹部が結託し、業界本位の開発計画を、人事権という権力で強行画策する様を描いた映画、「県庁の星:2005年度作品」に描かれた内容は単なるフイクションなどではありえない。

銃殺こそされなかったが、同党権力の横暴に泣かされた人は、官民問わず少なからず居た筈だ。

多数決の原理と多数派が持つ権力の行使を混同している現象だ。

だから今回の自民党大幹部、加藤紘一氏の発言を私は歓迎する。テロで実家を焼かれた加藤紘一氏が受けの良い発言をしているとは思えないからだ。

それにつけても、こんな時に妙に黙ってしまう人物が居る。田原総一郎・曾野綾子、権力迎合作家や評論家。

『テロに対して、国民の全員が悲しみと憤りを持っていることがハッキリしていることに、いちいちコメントするまでもない』とでも言って、マスコミの取材を断っているのだろうか?

それとも、佐高信に「筆刀両断」されるのが怖いのか?


中ぐらいの夢、六甲おろし

2007-04-21 20:03:29 | スポーツ

Photo_6   夢には3種類ある。大・中・小の3種類、あるいは長・中・短と言えば良いのかも知れない。

実現に10年あるいは一生かかっても叶わない、いわばロマンみたいな夢もある。あるいは毎朝、出勤電車で同じ車両に居合わせる、タイプの女性の顔を見るのが楽しみという些細な夢もある。

それに比べ、中ぐらいの夢というものは意外と実現しそうで実現しない厄介ものである。
私の中ぐらいの夢の一つにフランス旅行がある。

パリのムーランルージュでデイナーを摂りながらフレンチカンカンを見るのが楽しみなのだ。海外旅行にはあまり行っていないけれど、フランスだけは好きで4回ほど出かけている。

費用の準備と時間的余裕がマッチしないと気軽に行ける旅行ではない。もし、フランス旅行がいつでも行けるような身分になったら、きっと「中ぐらいの夢」からランクダウンするんだろうと思う。

私の中ぐらいの夢にはもう一つある。甲子園で六甲おろしを唱うことである。

時は真夏、浜風が吹いていなければならない。もう一つ、ほろ酔い機嫌でなければならない。

少年野球の指導員をしていた頃、野村克也(当時ヤクルト監督)も地域で少年野球の指導員をしていたと識り、とつぜんプロ野球に興味を持つようになった。

野村克也が阪神タイガースに移籍してそれ以降、阪神タイガース贔屓となった。蛇足ながら、次の星野仙一監督は嫌いだったが、Aクラスチームに仕立て上げた功績は認めねばならない。

昨日(20日)はジャイアンツと対戦。延長12回、投手のJ・F・Kも使い果たし、とうとう3点リードされ負けたと思いきや、その裏、代打の狩野がプロ初安打を放ち劇的なサヨナラ勝ちを決めた。

今日の夢は、ナイター第2戦をみることである。

もちろんサヨナラ負けなんていう「悪夢」は見たくない。


夕張市長選 選挙公報廃止!!

2007-04-19 17:53:44 | 国際・政治

_160x120 知人の市議会議員が北海道の夕張市長選挙の応援に出かけている。

現地からの情報によると、何と市長選のための選挙公報が財政再建団体にとっては、無用な”贅沢品”なのであろうか、配布されないというのである。その費用34万円である。

統一地方選挙(前半の部)では私も配布された選挙公報を読んで、各候補者の政見を知ることが出来た。また、駅頭では候補者の選挙演説を勤め帰りに聴いたものである。

なんとか選挙期間中に3人全員の候補者の政見を見聞きすることが出来た。しかし、都市部と違い農村部や気候寒冷地、高齢者が多い地域では駅頭なりで全候補者の選挙演説を聴くことは至難であるに違いない。

であれば、有権者にとっての判断材料は選挙公報しかないのである。その選挙公報を廃止したとなれば、公正な選挙自体の成立が危ぶまれる状況が生まれてくる。

管財人(国・道)にとっては34万円の支出削減という”大儀”に取って代わって、市民・国民にとっては民主主義のなし崩し的喪失になりかねない。

この裏には、国からすれば『財政再建団体のクセに、地方自治だの選挙だのと一端なことを言うんじゃない。本来ならば官選市長を送るところだぞ!』と言う意図・いじめ・イヤガラセが見え見えである。

国(道)はかって、採炭法や観光地リゾート法で補助金や助成金をエサに夕張市を翻弄してきた張本人である。そして、いままた素知らぬ振りをして管財人ヅラをして威張っている。

34万円と公正選挙を天秤に掛ける愚をしてはならない。

民主主義には多少の金も掛かるし、気長な時間も掛かる。しかし、財産でもある。

ピストルで市長の首をすげ替えることなどあってはならない。戦前の二二六事件で、時の首相が銃殺され、軍部という権力が台頭し民主主義が喪失。日本は転げ落ちるように悲惨な太平洋戦争に突入してしまった。

我々は歴史に学ばざる恥を知るべきだろう。


大往生、シー調男 植木等

2007-04-14 10:41:44 | 芸能ネタ

Photo_5  3月27日、コメデイアンで俳優の 植 木等(享年81歳)が逝った。

好きな芸能人の一人であった。コミカルバンドのクレイジー・キャッツで売り出した頃、40年前にTVで知った。

無責任男・シー調(調子が良い)男の役名がはまり、ドラマや映画のサラリーマンもので人気を博して行った。

晩年はしんみりとしたドラマや映画の中で、フッと笑わせる粋な役柄や、そんなに人生を思い詰めなさんな!などという雰囲気を醸し出す役が多かった。

彼はお寺育ちであり、因んだ東洋大学を卒業したという経歴を持っていた。多分、仏教というものの擦り込みみたいなものが植木等にはあったのではなかろうか。

一見するとダメ男みたいな人間が、会社の業績を上げて出世する(映画:日本一の無責任男)。 そこにはシー調はあってもズルやエゴはない。

同僚との信頼関係を捨ててでも自身の出世だけを考えれば良しとする、成果主義などというまやかしにも踊らされてはいない。

この世の中「粋と度胸」でシー調に、ふん詰まったら無責任で!会社のために死んでなんかいられないと言うわけである。

この春、知人が残業・休日出勤の連続で倒れ、入院のまま異動引き継ぎという事態になった。私は家族の方に『仕事を忘れ、治療に専念しなさい。』とアドバイスした。

病気になってまで「会社人間」になる必要はない。世の中、シー調にそして無責任もときにはアリである。

そうですよね?植木等さん。