イワン・アサノヴィッチ家の一族郎党が揃って初めて旅行に出かけました。
長男一家と次男一家の総勢9人、孫三人を含みます。
長瀞に一泊二日で出かけて来ました。
一番下の孫は未だ生後6ヶ月ということもあって、近っぱの温泉地を選びました。
一番年上の孫(?ミユ)は6歳になりました。<o:p></o:p> 長瀞には渓流があって、「船下り」が有名です。
観光の売りにもなっています。
イワン・アサノヴィッチは船下りを経験したことがありません。
今回の長瀞旅行を機会にぜひとも船下りを経験してみたいと思いました。
ホテルから送られて来たパンフレットには子どもでも身長が90cm以上あれば乗船が可能と書いてありました。
?ミユは90cm以上ありますので、乗船可能です。
きっと?ミユも船下りを喜ぶはずと思い、ジイジは旅のコースに渓流下りを入れました。
ジイジは?ミユの喜ぶ顔が好きです。そんな顔を想像して、ひとり悦に入っていました。
ところがです。ジイジの提案は?ミユから一蹴されてしまいました。
曰わく 『窓のない舟は乗りたくないの!』…でした。 WWW (-_-;)
先日、カミサンと伊豆の下田に忘年旅行に出かけてきました。
JRの往復の特急とホテルがパックとなっているだけの極安の料金で済む旅行です。だから下田温泉では完全なフリーで放っておかれてしまいます。
観光はすべて自前ですので伊豆急下田駅から近い「唐人お吉資料館」に出かけました。
お吉は江戸幕府が開国したばかりの初代米総領事のハリスの従女に、要求されるままに送り込まれます。
お吉のあとに4人の従女がハリスのもとに送り込まれます。お勤めと言うのも変ですが、お吉以外の4人はそれぞれ数ヶ月から一年間の期間をハリスのもとで暮らしました。
お吉を初めとした従女たちはみな十代で、支度金は25両、暇金は30両、年俸は120両と言う莫大なカネが幕府から支給されていたそうです。まるで日米安保の米軍に対する思いやり予算を彷彿させるお話しです。
『こんな時代から日本はアメリカの言いなりだったんだね。』と近くの女性の見学者が呟いていたことが印象的でした。
お吉はハリスの帰国後、酒に溺れる自堕落な生活をおくるようになり孤独地獄と周囲の無慈悲な「唐人」と言う差別の扱いに耐えきれず49歳で入水自殺をして果てます。
壮絶な孤独生活と相俟ってお吉のハリスへの思慕が美しく対比して描かれた話しだけがともすれば我々に残されていましたが、事実はどうやら違っていたようです。
お吉は他の従女と違って僅か3日でハリスから暇を出されるのです。”一目惚れ”などという言葉もありますが、果たして僅か3日の情交で一生を貫くようなハリスへの情念に為り得るものなのでしょうか?
お吉は総領事館を出てから、昔の恋人と一時期生活を共にしますが失敗し独り身となり大金もなくなり正に何の後ろ盾も無くなってしまうのです。
そこから陰湿な弱い者イジメが始まるのです。入水自殺したお吉の亡骸は誰一人引き取ろうとした者は居なかったそうです。宝福寺の住職が引き取り菩提をしたそうです。
我々の知っている唐人お吉物語は、どうやら後生の人のいわば判官贔屓みたいな創作ではなかろうかと思われます。
昨年、フランスのブルターニュ地方の都市レンヌを観光した時のことである。
森の中に在るような都市で、5月の陽光にそちこちの大きな木々の枝葉がサワサワと揺れている光景は見事であった。
現地フランス人女性のガイド(Ms,セベリン)が付いて案内してくれたが、報酬を度外視した熱心な説明に敬服させられた。
中世のモルドレーズ城門を見学した時に、聞き間違えでなければ、徐々に拡充された城壁は古くは2000年前に遡ると言うのである。
その頃はローマ帝国のシーザーがガリア戦記に遺した時代である。
2000年前の城門は、いまは市街地化されアーチ部のみが遺されているのである。
当時、フランス北東部のアレッシア(古代地名)ではガリア人と ローマ帝国は最後の決戦をしていた。
シーザーに対抗するガリア軍の総大将はウエルキンゲトリクスであった。ウエルキンゲトリクスはガリア人の”自由”のために戦った。2000年前のことである。
日本で”自由”という概念が歴史に登場するのは明治以降であり200年にもみたない。
フランス人(ガリア人というべきかも知れない)の個人主義の奥の深さを思い知らされる。
ひょっとしたら…、城門のさきにはシーザーがいるのではないかと思い、アーチをくぐってみた。
妻と久しぶりに登山旅行をした。それも冬山である。目指すは穂高連峰だ。
新穂高温泉から登り始め、標高差1000mにおよぶ西穂高口(2156m)を何なく制覇。
地元のひとから聴いていたとおり、雪はやや少なめであったが、連峰や槍・笠の頂上の、ガスの合間からの眺望はやはり格別だ。
シンとした冷気に触れながら、聳える孤高の峰々を見ていると、下界を離れた天空人へと変化していく自分に気が付く。
雪の深い尾根道を歩き始めると、疲れからだろうか妻が足を滑らし滑落しそうになった。私は咄嗟に手を差し伸べ、妻の右手首を捕まえ足を踏ん張った。遭難回避。
この時…、夫婦というよりも登山家同士の連帯感を、改めて深めあったことは言うまでもない。
温泉駅からロープウエイで一気に西穂高口に上り、頂上駅の回りに造られていた、観光客用の周遊の雪道を歩いていたところ、カミサンが途中の坂道で、『キャ!』とか言って滑ってしまった。
『あっ!』とか言って、傍らにいた私は為す術もなく傍観せざるを得なかった。起きあがった後には、カミサンの大きなお尻の型どりが出来ていた。
この辺が私たち夫婦の冬山登山の、ことの真相であるらしい…。
例年行われるチョコレートつくりの技と味を競うショコラチエ選定になる前の、候補者5人を追いかけたドキュメントである。
5人はフランス各地に住むチョコレートづくりの職人である。
パリで店を持っている者、マダガスカルでカカオ畑を経営している者、ブルターニュで塩田のザラメ塩を使用したチョコレートづくりに励む職人夫婦、そこそこ、フランスでチョコレートづくりで頑張っている日本人の女性も2人登場する。
その中の1人がショコラチエに選ばれた。
しかし、落選した4人の言葉と笑顔が素晴らしい。
『悔しい』なんて誰も言わない。頑張った自分とそのプロセスを評価し、そんな人生そのものを満足しているのである。
彼らにとって、優勝は最初からそんなに大きな目的ではなかったのである。
観賞者のだれもがまた、5人の健闘を等しく評価し、挑戦者の5人と全く同じ視点に立てたのではなかろうか。
海外旅行を余りしない私は、好きでフランスにだけは4回ほど行っている。
ファッション・グルメ・ブランド・芸術には殆ど興味がない。
フランスが好きな理由はいろいろあるが、一つにフランス人のノリの悪さが良いのである。そして反対にその良さが私には理解出来る。
フランス人は分相応をしっかり弁えた国民だと言うことだろうか。
日本人のように政府やマスコミから宣伝されると直ぐに飛びつく軽薄な自主性とは違う。
エセ効率家はたかだか1年先かそこいらの利益が欲しいがため、成果主義だ競争主義だと世を煽る。
彼ら5人は、今年の優勝が目的ではなく、チョコレートづくりを、その先の長い人生の目標に織り込んで向かって行くのである。
そんなフランス人の姿が、そして「優勝」だ「トップ」だなどというものに踊らされない”ノリの悪さ”が好きなのである。