イワン・アサノヴィッチの一日  畑と映画の好きな卒サラ男。

政官業癒着体質の某公共事業職場を定年退職。鞍馬天狗・鉄腕アトムの人類愛に未だに影響を受けっ放し。孫には目がない。(笑い)

畑の歌謡曲・田端義夫(女の階級)

2015-08-20 19:10:53 | 芸能ネタ
 往年の歌手と言っても、昨年亡くなった田端義夫は好きな歌手だった。
戦前(昭和14年デヴィユー)からの歌手だったが、戦後もヒット曲に恵まれ多くのファンが居た。

イワン・アサノヴィッチの好きな曲は、「大利根月夜」と「かえり船」だ。
二次会のカラオケでは必ずといってもいいほど歌った二曲だった。
ヴァイブレーションの効いた、あの嗄(しゃが)れ声で歌われる曲には、哀愁が漂っていた。

曲自体も、剣豪でありながら華々しい世の中から外れた人間(平手造酒)や、敗戦後慌ただしい日本に向けてヒッソリと帰国せざるを得なかった大陸からの帰還者たちの心境を踏まえたもので、哀調切々たるものがあった。

戦前のステージでは軍部の検閲があり、『お前の歌は軟弱だ。』と弾圧的な暴言を吐かれ、憤然と『なら、東京では歌いません。』と言って大阪に移ってしまったそうだ。
デイック・ミネと言い、軍部支配の世の中に抗した人間がここにも居た事に安心する。

そんなこととはイワン・アサノヴィッチは一切識らなかったが、手向けの気持ちもあって1万円をはたいて、CD5枚組特集を購入した。

曲の中には、戦前戦後にヒットした歌謡曲をカバーしたものも在った。
気になる一曲が在った。それは何と言っても「女の階級」だった。
原曲はハイテンポの、いわゆる古賀政男メロデイーである。まさに、「丘をこえて」ばりの曲であり音程が高い。

イントロを聴いただけで、田端義夫には合わない、もっと言えば彼には歌えない曲だと直感した。
第一小節に突入した!
そこには普段の田端義夫とは思えない、ハイテンポ・高いキーを使いこなす田端義夫が居たのである!
ちょっと、鼻に抜けるが決して嗄れてはいない、甘い高音程の符を見事に歌いきっていた。さすがプロである。名曲の一つになった。

ラッキョウ収穫 自給自足の苦労

2015-08-16 15:54:44 | 農業
 畑をやり始めてから、かれこれ20数年となりました。
ちょっと大げさな言い方になりますが、畑の森羅万象・様々な事が分かるようになりました。
★植え付けが大変な作物。
例えば、イモつる苗を舟形にして第四節を見当にして植え付けるサツマイモなんて、かなりの苦労です。
★定植に手間の掛かる作物。
例えば、細い溝を掘って、最低でも一回ないしは二回ぐらい植え替えをしなければならない、ネギです。
★水やりに神経を使う作物。
たとえば、ニンジンやナス科の野菜。夏場の水喰い野菜ですから、灌水をしても、しても土は瞬く間に乾燥してしまうのです。
★収穫が大変な作物。
例えば、サツマイモとジャガイモ。根や蔓を切り落とし、大泥を落とさなければならないのです。何百という個数ですから苦労です。
★収穫直後が大変な作物。
ラッキョウです。泥付きのまま、根と首を植栽ばさみで切り落とします。バケツ洗いを3~4回繰り返し、ラッキョウの外皮を洗い落とします。
種子で10kgほど植えましたので、個数は何千個というレベルです。

家族中がラッキョウの漬け物が好きなので、作り甲斐はあるのですが、自給自足とは言うものの、泥付きなので炎暑のなか庭での仕事は大変です。
酢漬けラッキョウは孫も良く食べてくれるので、嬉しいのです。 !(^^)!





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ミユ♡、10秒の成長

2015-08-13 11:20:39 | 日記・エッセイ・コラム
 イワン・アサノヴィッチには小学二年生の孫娘がいます。
初めての孫なので、幾つになっても可愛いいものなのです。
今年も夏休みになり、ママが日曜出勤となったので泊まりに来ました。

バアバと弟のヒナと4人で千葉市のゴミ焼却場に併設されている、温水プールに出かけて来ました。
大きなプールで、競泳用のプールから幼児の遊べる浅いプール、はては回転スプロールプールと多種多様です。

その中で、子どもたちの一番人気は流れるプールです。
背の高いミユ♡は数年前から、一人で入ることが出来ました。
今日もミユは流れるプールに一目散です。

『ジイジ、ミユが逃げるからネ、30秒…あっ、20秒たったら追いかけて来て掴まえて。』
と言って嬉々とした顔付きで逃げて行きました。

人気の流れるプールは夏休みとあって、大勢の親子連れでゴッタ返しています。
水泳の得意なイワン・アサノヴィッチとあっても、思うように前に進むことが出来ません。
プールは蛇行しながら円形を描いています。狭くなった部分では反対側で泳いでいる人の顔が分かります。

丁度、反対側を逃げて行くミユの目と合いました。
追いかけられているというスリリングな気持ちと同時に、まだまだ余裕があると言う、楽しんでいる目付きです。
そんな顔をしている、ミユの姿を見ることの出来る幸せは、さしずめ”孫冥利”とでも言うのでしょうか。

考えて見れば…、去年までは30秒経ったら追いかけて来て、と言っていた筈なのに今年は20秒になっているのです。
追いつ追われつのスリリングを楽しむためには、70歳になったジイジの体力低下を考慮して、10秒ぐらいを縮めなくてはダメだろうと言う算段が出来るようになったのでしょうか。

1歳の妹に”死の薬” 兄の消せない記憶

2015-08-01 16:37:20 | 日記・エッセイ・コラム
 ある新聞記事(2015年5月19日付け:赤旗)に目がとまり、涙が止めども無くでてきてしまいました。

70年前、村上敏明さん(80:京都市)が満州から引き上げる時のことでした。
当時11歳の村上さんは病弱な1歳の妹、芙美子さんと一緒でした。

防空などの隣組の大人たちの、足手まといになるからという声に押されて「1歳を迎えたばかりの妹に薬を飲ませて死なせた」のです。
「日本人が多く住んでいた満州:四平市という街は、連日のように砲弾が撃ち込まれる戦場だった。だから医者から渡された薬を抵抗せずに与えた。」そうです。

しかし、日本人居留地の学校で同級生だった男性(80歳)は、当時をこう振り返ります。
「妹を死なせた後、村上君は私の家にかけつけて、泣きじゃくりながら話してくれた。彼は大人達にかこまれどうにも出来なかったのでは…。村上君は自分を責めていたんだと思う。」

96年に同窓生と訪ね、妹を埋葬した中国の川辺から持ち帰った砂の入った小鉢を手に村上さんは話します。
「妹の芙美子は薬を飲ませたとき黒い瞳でじっと僕を見ていたが、その後しずかに目を閉じて死んだ。」

イワン・アサノヴィッチも終戦っ子で、この夏に70歳になりました。
上海から引き上げて来たという境遇は村上さんと同じです。
イワン・アサノヴィッチの両親は既に他界していますが、敗戦・引き上げ時には言うに言われぬ辛い思い出があった筈です。しかし、両親からは多くを聞いてはいません。

村上さんの、心の奥に潜んでいた自責の念がいつしか、ある確信へと変わりました。
「いま、平和に暮らせる努力をする事が、妹たちの語られぬ遺言だと思う。」

イワン・アサノヴィッチには2歳になる孫娘がいます。彼女の黒い瞳を決して閉じさせてはならないと意を新たにしているところです。