イワン・アサノヴィッチの一日  畑と映画の好きな卒サラ男。

政官業癒着体質の某公共事業職場を定年退職。鞍馬天狗・鉄腕アトムの人類愛に未だに影響を受けっ放し。孫には目がない。(笑い)

畑の歌謡曲 みたび長崎エレジー

2015-02-18 16:29:45 | 空海の周辺
 戦後間もない歌謡曲「長崎エレジー」は、原爆の被災地・長崎の人々の鎮魂と励ましの願いを込めた歌謡曲だと気がつきました。
と、本ブログに書いたのは2014年9月11日付けのブログでした。

明るいテンポで歌われている「長崎エレジー」は畑作業に合っています。
そして何よりも歌詞が綺麗です。
畑では何十回も聴いています。いや!一曲リピートを何回もしているので、百回は確実に超えて居るでしょう。

最近、曲の4番を聴いていると目頭が熱くなるようになりました。
曲の2番は、被爆で純愛の恋人を亡くした乙女の切ない心を歌っています。
曲の3番は、両親を亡くした幼い少年の悲しみと明日へ向かって行こうとする健気な決意が歌われています。

曲の4番の歌詞は、
♩ 今日は涙の雨が降る 夢の長崎 合い寄る魂(たま)を ♩ 
♩ 結べ 夜霧の アベマリア ♩ 
とあります。

イワン・アサノヴィッチには幼い孫を抱えた二人の嫁がおります。

曲の4番は、きっと幼子と同時に被爆死した母親が歌われて居るのでしょう。
尊い”生”を受けたばかりの幼子は、抱きかかえる母親と同時に被爆して命を落とします。
愛情いっぱいの母親と一緒に、これからの人生を生きて行こうとしていた矢先の悲劇でした。

しかし短い人生ではあったけれど、せめて二人の魂が”昇天”するときは、はぐれることなく、また一緒に母子のまま、魂が合い寄って天国に行けますように…
「長崎エレジー」はアベマリアに祈ります。

平和に生きている孫たちに、これからも幸あれと祈ります。

お彼岸  『パパはここに隠れているんだよね!』

2011-09-26 23:50:27 | 空海の周辺

        

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 9月25日、お彼岸参りに出かけてきました。

お墓は隣町にあって、イワン・アサノヴィッチの父母が埋葬されております。父が他界して10年、母は2年。はやいもので、来年は父の13回忌と母の3回忌を一緒に行おうとお坊さんとも話しをしています。

神奈川の弟一家がお参りをしてくれていたみたいで、綺麗なお花と父母が好きだったタバコが供えられていました。

父母は共に80代で他界し、いわば天寿全うみたいなものでした。猛暑もこの彼岸で丁度おわりとなり、霊園には涼風が吹き渡っていました。私も弟にならって、2本のタバコに火を点けて供えました。うららかなお彼岸でした。

お参りを済ませて帰り支度をしていると、隣の区画にやはりお彼岸参りに来られた方が来ました。60代のご夫婦が1歳ぐらいのお孫さんを抱いて居ます。そのあとに20代後半と思しき女性が供花を持ってついて来ました。

母親を追いかけるように3歳ぐらいの男の子がトコトコとやって来ました。
この方々は一体の話し誰をお参りするのでしょうか、一目瞭然でした。パパが居ません。

パパの不在に気付いたイワン・アサノヴィッチはそれ以上はもう、この5人家族を正視できない切ない気持ちになりました。

パパが亡くなった理由は何なのでしょうか。病気かまたは事故で早くして逝去されたに違いありません。

ママの後をトコトコと小走りしながら追ってきた3歳ぐらいの男の子は、ニコニコと笑顔をたたえています。まだ、パパの死を認識できないのでしょうか、無理もありません。

しかし、坊やの次のひと言で、それは私の思い違いであることを知らされました。

『ママ!パパはここに隠れているんだよね!』と、”会えないパパ”の所に来ることができた喜びをニコニコと笑顔で表現していたのです。坊やは、こどもなりにこのお墓に来て、亡き父親のにおいを感じていたのです。

…ああ!せめて1時間でもいいから、”隠れているパパ”がこの坊やの前に出てこられないものだろうか…。詮無いことを考えて胸がいたくなりました。

ひとには、どんなに愛している人であっても、いつかは別れなくてはならないと言う苦しみがあると、お釈迦様は言って(愛別離苦)おられます。

でも、若きパパとママへのお願いです。どうぞ事故などで死なないでください。また病気になどにもならないでください。そしてなるべく生きぬいてあげて下さい。


myみー 「愛別離苦」

2010-03-30 12:03:49 | 空海の周辺

  イワン・アサノヴィッチには2歳半になる孫娘がいる。家族はみーとかみーたんとか呼んでいる。

ブログを読んでくれている、イワン・アサノヴィッチの昔を知るひとは「好々爺もほどほどに…」と言うほどにイワン・アサノヴィッチはみーにイカレてしまっているのである。

みーもまた『じィじ!じィじ!』とイワン・アサノヴィッチを慕ってくれている。嫁曰く『じィじとみーは相思相愛だから、もう仕様がない』と言う状態なのである。

 みーが熱を出した過日、保育所には連れていけないので預かることになった。嫁と二人で我が家に来たのであるが、みーはいつものとおりじィじの家に遊びに来たと思いこんでいる。

しかし、嫁が『ごめんね、みーたん!ママこれからお仕事に行くからじィじと待っててね。』と少し深刻なニュアンスで語りかけた。

ムリもない、遊びに来たと思っている我が子の気持ちを慮れば母親の気持ちにも忍びがたい思いが入り込んでしまうものであろう。

じィじの家に来てハッピーな気持ちで一杯のみーは、じっとママの言葉を聞いていたが見る見る眉はゆがみ悲しげな表情に変わった。

イワン・アサノヴィッチは直ぐさまみーを抱き上げ『ママお仕事だね、じィじとお留守番してようね。』と優しく告げた。

みーは泣きはしなかったものの黙ってイワン・アサノヴィッチに抱かれていた。『じゃあ!みーたんママにイッテラッシャイしようね!』と玄関に出た。

車は動きだし嫁は車窓越しに手を振っていた。

『みーたん、ママがバイバイしているよ』とイワン・アサノヴィッチ。みーは健気にもしかし淋しそうに手を振っている。

人には人生の中で愛する人と別れなくてはならない苦しみがある。恰も「愛別離苦」と言う釈迦の教えを悟っているかの如くである。

みーはイワン・アサノヴィッチの観音様なのである。


南無阿弥陀みーたん

2009-12-25 00:21:24 | 空海の周辺

 お地蔵様の顔は幼児のそれである。邪気が無く柔和である。

イワン・アサノヴィッチには二歳になる女の子の孫が居る。家族中でみーとかみーたんとか呼んでいる。可愛くて仕方がなく、孫もイワン・アサノヴィッチを慕ってくれている。

嫁は『じィじとみーたんは相思相愛だからしょうがないね』と喜びとも呆れともとれるようなことを言いながら笑っている。

孫は育てる義務や責任がないから可愛いものだと良く言われているが果たしてそうであろうか。
人間も孫をもつような世代となればそれなりの人生を歩んできたことになる。

若いころ自分の子どもを育てていたころには、子育ての責任やら実務に追われていたばかりではなく、様々な煩悩にまみれていたのではなかろうか?
煩悩にまみれた眼(まなこ)では時として子どもの無邪気は見落としがちである。

過日、嫁とみーとイワン・アサノヴィッチの娘(みーにとっては叔母になる)の4人でケーキを食べたときの事である。

ケーキがテーブルに置かれるやいなや、みーは好物なものだからせっせと食べ始めた。大人が食べ始めたころには既に食べ終わってしまった。みーの視線は隣席の母親のケーキ皿に注がれている。

やがてみーは母親のケーキ皿を指さし『みーたんの!』と主張し始めた。『ええ~!ママはまだ一口しか食べていないんだよ~』と言いながら渋々ケーキ皿を孫に渡した。

すると申し訳ないと思ったのであろう、自分の空になった皿を『ママの!』と言って、交換したのである。
大人3人は大笑いをしてしまった。無邪気なものである。

イワン・アサノヴィッチは仏教徒ではないが時に無我無心を求めて念仏を称えることがある。気が付けば最近は変な念仏を称えている。南無阿弥陀みーたん。


生きてこそ生きる 映画「母べえ」

2008-03-16 21:14:20 | 空海の周辺

 お釈迦様は、『人のこの世は四苦八苦という苦難の連続だ』と説いている。しかし同時に、生きよ!と説いている。

大きな権力・地位や財産などは虚仮(コケ:本質的なものではなく、むしろ空しいものの意)だと説かれている。

知足(足るを知る:欲張らず、平凡な生活の幸福)で良いではないかと説かれている。

母(かあ)べえは、死の床で立派に成長した二人の娘にお別れの挨拶と感謝の気持ちを告げる。

娘たちは『天国の父(とう)べえに会えるからいいね』と明るく振る舞う。

しかし母べえは消え入りそうな声で『あの世でなんか父べえに会いたくない。生きているうちに父べえに会いたかった。』と言って息を引きとる。

人はみな”生きてこそ生きる”存在なのである。

父べえは若き学者で思想家である。

戦時色濃い生活物資もままならない時代に、母べえはそんな夫と思春期を迎えた二人の娘たちと共に、食卓の品は至って貧しいが、平凡な一家団欒の幸せの中で暮らしていた。

時の支配者・権力者と取り巻きの追随勢力(戦前の特高警察など)は、非戦平和を唱える平凡且つ善良な学者を投獄する。

母べえ一家の、ありふれたつましやかな生活は国家権力によって暗転させられる。

母べえと二人の娘の必死で毅然とした父べえへの支援、大学の教え子や義妹の慈愛に満ちた懸命の協力があったにも拘わらず、父べえは無惨にも獄死させられてしまう。

四苦八苦の苦難の永い人生という川の流れの底にキラリと光る砂金のような愛や感動や援助や感謝が見え隠れして存在する。

母べえはそんなごく普通の、ありふれた夫と家族の生活を希求していたに過ぎない。

『生きているうちに父べえと会いたかった』の母べえの言葉は、お釈迦様の『生きてこそ生きる』の教えと同質なものなのである。