イワン・アサノヴィッチの一日  畑と映画の好きな卒サラ男。

政官業癒着体質の某公共事業職場を定年退職。鞍馬天狗・鉄腕アトムの人類愛に未だに影響を受けっ放し。孫には目がない。(笑い)

ネギの薹が立つ  (-_-;)

2014-04-30 23:45:40 | 農業

  4月に入っても冬なみの寒さが戻ったりして着物が厄介です。
逆に3月は中旬以降、かなり暖かい日が続きました。
実はこんな時期の畑は甚だ厄介なのです。
ネギやシュンギクの調子がいまひとつ掴み着れません。
まだ収穫には早すぎると思っていると、たちまち成長してしまったりします。
イワン・アサノヴィッチは現在、概ね150坪(=500㎡)の畑を耕しています。
小さな耕運管理機(ニックネームは“大日小力”と言います。)はありますが、営農耕作の基本は人力で、鋤・鍬・シャベルを使って頑張っています。
さすが20年もやっているものですから“畑の基本”みたいなところはマスターしたかに見えますが、時にゼロからやり直しみたいな事もあります。

 いま獲れている野菜はネギとシュンギクとブロッコリー、サニーレタスが少々です。
これらの作物の薹立ちに苦労しています。
取り分けネギとシュンギクの薹立ちには右往左往です。
や所用で2・3日のあいだ畑にいけないと直ぐに薹立ちが始まってしまうのです。
ひどいものはその場で捨ててきますが、なんとか無理して食べられそうなものは、勿体ないので収穫して来ます。
量が重なって我が家で食べきれないような時はご近所にお裾分けをします。
勿論のこと薹立ち気味で少し固いけれども我慢して食べて下さいとお断りをします。
きっと、いい迷惑なのでしょうね。
“百姓“とは良く言ったものです。
即ち、百の姓を持って居ると言う意味でしょうから。
今回は営農耕作の経験だけではダメで、気象・気候も読めなくてはいけない、ということが分かりました。
少し薹立ち気味の野菜を持ち帰り『急に暖かくなっちゃったんで、固いけどしょうがない。』と説明してカミサンに渡すのですが、返事はかなり辛辣です。
『ダメよ、アンタは。こんなことでは本百姓になんかなれない。』
ムッときますがイワン・アサノヴィッチには返す言葉がありません。 (-_-;)


 Img_1216_2   Img_1129 夕焼けヒコーキ雲

 

 


テリー伊藤某は官・業の代弁者

2014-04-25 15:37:53 | テレビ番組

 フエースブックの著名人こと千葉麗子氏の元気一杯の”グチ”と自身への”叱咤激励”投稿を読んで、イワン・アサノヴィッチもまた励まされ、以下の投稿をしました。 

 先日、日テレの朝番組「スッキリ!!」を観ていたら、またぞろテリー伊藤某とやらが無知・不遜なことを宣っていました。
 

死者107名と言う大惨事となった「JR福知山線脱線事故」の遺族が会社や国交省を相手どって係争中の報道に、テリー某は見識を疑うコメントを発言していました。
 

それは、「マスコミ業界」における自身の地位に驕りきったもののように見えました。
 

遺族の父親は愛娘の死の無念から、様々な問題意識が生まれ、会社や国交省に質問状などを提出していましたが、碌な回答が来ないことを訴えていました。

テリー伊藤某のコメントは、『もう9年も経っているのだから、遺族の方はいつまでも拘っていないで、旅行とか楽しいことをして生きた方が良い。』と言う内容でした。

みなさんお気づきでしょうが、…この言葉こそが「会社」や「国交省」が一番に言いたい本音なのです。テリー伊藤某は見事に業界と国の意向を代弁しているのです。

こんな男ですが、業界や官界にとっては有難い人物ですから大事にされます。

折も折の23日、遺族が起こしていた、海自護衛艦「たちかぜ」の隊員いじめ自殺と国の隠蔽が東京高裁で断罪されました。

 裁判に勝った遺族の母親は『心の底から幸せを感じる事は、もう一生ないと思います。』のコメントを発してうつむいてしまったそうです。

 イワン・アサノヴィッチも子や孫を持つ身になって、遺族の母親のお気持ちを察すると涙が出て来てしまいます。

 傲慢なマスコミ・芸能界のパフォーマンス男、テリー伊藤某はこの言葉を如何に聞くのでしょうか。

芸も無ければ知性もない、服やメガネ小道具・帽子などを使って、テレビ映りを良くすることばかり考えている「老害タレント」。

そんな男に莫大なタレント料を払っている「マスゴミ業界」と、TVの影響力を悪用している官界と関係する政治家の在り方が透けて見えます。

どうみてもテリー伊藤某は芸能界の寵児などではありません。いまだにお上の意向を汲んで薄汚く徘徊している岡っ引きみたような者に見えます。

 「政官財癒着」の実態は、こんなところ迄にも浸透して来ています。

 


クリミア問題をどうとらえるかー好論評の紹介―

2014-04-06 18:54:34 | 国際・政治
  

 イワン・アサノヴィッチのコメント投稿) 

2014-03-16孫崎享 http://ch.nicovideo.jp/article/ar484083 

軍事力だけがものを言った時代ならばともかく、これからの時代は経済や文化が国の命運を分けることになるはずだ。

 孫崎さんのように、グローバルな政治を考えている人が欧米にもロシアにも居たと思われます。
 

しかし、現実はウクライナにおける勢力圏の拡大だけをEUもロシアも強引に選択してしまったのです。 

 

 現実を直視し、リアルな方向を提言できる人間よりも、言葉だけは勢いのある、「精神論」で外交を進めると言う愚かな人間が当事者のウクライナを含めて米・欧・露、各々の政権中枢で未だに闊歩しているものと思われます。
 

 

 東西冷戦時代の相互不信というよりも、狭小な民族意識とか非グローバルな利権主義に走ってしまうのでしょうか。
 日・中・韓の尖閣や竹島問題も同様で、三国とも普遍的な国際意識と平和外交という原則的な理知で解決処理しなければならない筈です。

翻って現下の日本の政治を考えて見ると、「強い日本」とか「日本の再生」とか、耳に快く響くレトリックを盛んに駆使しながら、一方でやっていることと言えば神社庁にも入っていない私的な靖国神社を禍々(まがまが)しく参拝している首相がいる。

 余談になりますが、靖国神社は神社庁に入っていない私的な神社なのです。
だから、境内で売られている土産物には「アベノミクスおこし」などと言うものも平気で売り出されているのです。

 公的な場や施設でもない処に「首相」という公人が公務で出向くこと自体、特別公務員としての服務に、そもそも違反しているのではないだろうか?

 

即ち、大袈裟な言い方になるが安倍首相は憲法違反をしているのではないだろうか?

 話は少し逸れましたが、孫崎 享氏の上記のURLで読んで貰えれば良いかなと思われます。

 


ブロッコリー、とうだち

2014-04-06 16:34:45 | 農業
  

 旅行やら雨やらで5・6日ほど畑に出られませんでした。 

暫くぶりに畑に行って見るとブロッコリーのトウダチが始まって居ました。

日照時間も長くなり、気温も高めが続いたためでしょう。 

花芽が着いたものや大きく開き過ぎた花蕾は残念ながら切り捨てました。 

まだ小さめで蕾の開いていないものを収穫しました。 

家で食べる分には支障ありません。

 季節は春ブロッコリーを植えるころです。

 でも、目の前のブロッコリーは非常に元気です。

 きっと元肥をしっかり上げて尚且つ追肥も施したためでしょう。

 トウダチの季節になったからと言って、抜き捨てるのは忍びない。

 イワン・アサノヴィッチは、またも自己流の“実験”を試みることになりました。

 少し枝葉を剪定し太い茎は切断して新しい茎や葉を残しました。

 再度、肥料を施すことによって、もう1・2ヶ月は蕾を付けるのではないかとイメージしたのです。

 その頃になれば春植えのブロッコリーが食べられる時期になる。そんなプログラムです。

我ながらですが…、なにか…成功しそうです。

 

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また、春が巡ってきた

2014-04-01 14:26:47 | 日記・エッセイ・コラム

  とうとう春がやって来た。”68回目の春”だ。
しかし、まだ68回目なのかと自問してしまう。
3月中旬から暖かい日が続いていたが、4月になればこの暖かさも本物だ。思い起こせば子どもの頃は、学校は春休みで、寒くも無く暑くもない気候温暖の時期を満喫していた。
家は貧乏で親はやっと三食だけは保証してくれていたものの、あとはホッタラカシ同然の養育であった。
男三人兄弟は朝から晩まで、下町・江戸川の近所のガキ仲間と遊んだものだ。

町田に引っ越してからも生活は全く同様で親は共働き。ホッタラカシはひどくなりこそすれ改善されることなど望むべくもなかった。
終戦と同時に中国・北京から引き揚げて来た親には、文字通り家土地財産・家財など一切なかったのである。
誇張ではなく「赤貧洗うが如し」そのまんまであった。
良くしたものである。
そのぶん隣近所にはアソビ友達のガキタレがたくさん居た。異年齢のアニキ分も居たりで子ども社会・ヒエラルキーが確立されていた。
そのアニキ分達と一緒に20km離れた相模川にボロ自転車を駆って水泳に出かけたりしたこともある。
勿論のこと自転車は中古の実用車であり、サイクリング車でないことは自明のことである。
小学生だったから、今の時代では想像出来ない”アソビ”だった。
しかし、大きなリスクはありながらも冒険とロマンと創意と工夫、決断や実践に充ち満ちた貴重な時間だったと思える。
この時代の経験が若し無かったら、たぶん成人して以降いまに至るまでの自分のような存在はしなかっただろうと言っても過言ではない。
この”ボロ自転車部隊”は中学になってからも続き、50km離れた湘南・江ノ島海岸まで踏破することになる。…我ながら良くやったものだと感心してしまう。そこには”アソビ”と言うよりも”人生体験”そのものみたようなものが存在していた。子どもの頃のそんな強烈な春休みの記憶は、脳裏を離れず今も鮮明に残っている。それどころか今も春が来ると再び脈々と流れ始めるのである。
…畢竟、50~60年前の子どもの頃の情操は、大人になったからと言って、乗り越えられるようなものでは決して無かった。
ノスタルジーとは少し違う。再認識というのであろうか…。いま、そこへ立ち帰ろうとしている。