イワン・アサノヴィッチの一日  畑と映画の好きな卒サラ男。

政官業癒着体質の某公共事業職場を定年退職。鞍馬天狗・鉄腕アトムの人類愛に未だに影響を受けっ放し。孫には目がない。(笑い)

13回 「twitter」&フエースブック投稿集

2017-12-29 12:37:58 | うんちく・小ネタ
 フエースブック(2017年5月2日)
 過って、「格差は在って当たり前」と声高に喧伝した首相が居た。私はそんな当たり前のことをワザワザ首相が言う事ではないだろうと訝しく思っていた。それは「新自由主義」の到来を告げる意味だった。競争主義・成果主義が役所世界にも取り入れられるようになった。職場や地域の団結・連帯感がドンドン崩れて行った。同僚が競争相手だから課や係の飲み会も減って行き、労組や親睦会加入者も減って行った。
話を戻すと、私は【元・某県公共事業職場役人OB】だが、組織は緻密なほどまでに当時も格差で分類・差別化されていた。男女差・学歴差・大学差・地域差(地元優先)etc。即ち、無いとされていた公務員世界でもきちんと「地図による規定」がされていたのである。誰も異を唱えることなく全職員が己の持つ与えられた地図を大事にしながら職務に従事していたからである。
某首相の喧伝はほどなく日本全土に浸透し、勤労者の3割が非正規化されていった。働く20代の半分がワーキングプアーだと言う。アメリカと違って、人種・言語・肌の色が違わない国民の中に強固な差別の柵(地図)が顕在化するようになった。
今や差別化された国民は不本意な柵(地図)を自ら変える意思も力もない。果たしてこの先、国民は与えられた地図に従って黙々と生きていくだけなのだろうか?

「twitter」&フエースブック(2017年4月30日)
戦前、警察の逮捕・拷問を受けた人で生き残った方は、現在は政治改革に活動している。今で言えば共産党員・社民党やネット・自由党やその支持者が治安維持法の対象者になる。 政権にとって都合の悪い人間が狙いだった治安維持法。字面は「治安維持」でも中身は左翼思想や政権批判に対する排除弾圧法だったのです。

「twitter」&フエースブック(2017年4月28日)
根本はそういう所にあるかもしれませんね。現象的には「社会教育」即ち、会社や地域・隣近所、同窓会や労組etc 、大人社会を取り巻く人間環境が急速に崩壊していますね。「新自由主義」が声高に言った「格差は在って当たり前」そして「あとは自己責任」という過剰な「競争社会」がもたらしたフンみたいなモノです。

「twitter」&フエースブック(2017年4月23日)
国のトップは、その国民の身の丈に合った者が選ばれる。と言う言葉が在ります。 さしずめ、トランプ大統領の出現は、今のアメリカ国民の思考・意識の現れととれます。、なにか現今のアメリカ全体がヒステリックになっている感ですね。 予断ですが、トランプは4年間は持たないのではないでしょうか。

進まぬ幼保一元化 70年前、すでに国会で論議

2017-12-18 21:12:01 | 社会・経済
  安倍政権は唐突に、三~五歳の保育・幼児教育無償化を打ち出した。しかし一方では子育て政策に焦点が当たる中、幼稚園と保育所の垣根をなくす「幼保一元化」の取り組みは停滞が続き進んではいない。十年前に双方の機能を併せ持つ「認定こども園」の制度ができたが、幼稚園からの移行は進んでいないのである。

 東京新聞(2017年12月17日)は、保育・幼児教育問題に詳しい日本総研の池本美香主任研究員に、無償化や一本化のあるべき姿を聞いている。
池本美香氏はズバリと無償化より「待機児童」の解消を訴えている。
 即ち、「待機児童問題や保育の質の低下に対して十分な対策がないまま、突然、無償化の話が出てきた。無償化されても待機児童になったら何も得られない。深い議論をせずに、お金だけつけたところで、根本的な解決にならない。と強烈である。
続けて池本氏は、『無償化は本来、制度を納得感のあるものにしてから最後にすべきことだ』と指摘する。
数年前に『保育所おちた、日本死ね。』とコメントを発した若き市井のママと思しき方のやるせない気持ちが日本中で話題になった。
無償化は待機児童が無くなってから、最後にすべき事とする池本美香氏の言葉は国民感情からすれば的を射たものである。

余談になるが、こともあろうに偏狂的な右翼保守系の「論客」と称する堺屋太一・渡部昇一らが鼎談の中で、この「保育園おちた日本死ね」のコメントを取り上げて、『だったらイスラムでも何処でもイイから出ていけばいい。』と揶揄しているのである。
この二人の御仁は経済力もあり、孫を預けなくても済む家庭環境があるはずであり、よしんば預けるにしても恐らくセレブな幼稚園に預けることは想像に難くない。
共働きしなくてはやっていけない若きパパとママの一家にとっては、できれば公立の保育所に入れることがベストであり、漏れれば保育料は高いけれど民間の保育所にでも何とか入りたい・・。そんな心情がこの偏狂保守の爺様たちには分からない。

 話を戻すと、幼保一元化についてはニュージランドの改革が参考になるのではないか、日本でも幼稚園はダブつき気味で保育園は逆に超不足状態だ。これを一元化(厚労省と文部省)して、国の機関がすべての施設の質を定期的に評価し、結果を園ごとに公表する仕組みを整え、保育の質の担保や行政事務の効率化を二十年かけて実現し、最終的に二〇〇七年に無償化したのである。(池本美香氏)
縦割り行政の中でナワバリに拘る官僚を制する強い政治力が欲しいものである。

12回 「twitter」&フエースブック投稿集

2017-12-15 22:45:11 | うんちく・小ネタ
 「twitter」&フエースブック(2017年4月20日)
リツイートしました。 豪防衛相が提案した豪・中・日の共同軍事演習はいいことだ。日本はアジアの近所に敵を作るべきではない。そもそもアメリカは東アジアでウロチョロせずハワイとグアムまで引き下がれば良い。日中豪の政治体制の違いなんか小さなことだ。

フエースブック(2017年4月18日)
リツイートしました。
同じお話を以前お聞きしたことがあります。私の父親は昔の電電公社の職員で職務上の理由で上海に夫婦で渡りました。敗戦で上海から両親と誕生直後の私の三人で引き揚げて来た身としては、このお話は他人事とは思えず、幾度お聞きしても思わず泣いてしまいます。そして戦争の悲劇は二度と起こしてはいけないと心に誓います。
日本帰還後、両親は引き上げ時の苦労話は殆どしません。たぶん言葉には出せない大きな蟠(わだかま)りや、思い出したくない悲劇がそこには在ったからでしょう。
村上さんのように家族に毒を飲ませる悲劇・苦痛は計り知れないものがあります。
庶民・国民が連帯して平和を守っていきましょう!そして、どんな人でも生を受けたことは奇跡なのです。愛し合って行きましょう。

「twitter」&フエースブック(2017年4月18日)
リツイートしました。
 以前、共産党と東京で激しく競い合った公明党のベテラン・二見伸明氏。詳細は不明だが今は公明党を離脱。そして共産党を評価する言動。歴史は固定的には進展しないことを目の当たりにした思いです。

「twitter」&フエースブック(2017年4月17日)
終戦直後のノーマン(カナダ人)の言葉。現今と全く変わらず。驚いてしまう! 『現下の日本政治の無定形状態  多年にわたって積極的な政治活動から排除されていたため、日本国民は村落や近隣集団は別にして、自主政治(セルフガバメント)の経験を持っていない。あるのは官僚による伝統的な地位保全の努力。』


歌謡曲は、畑の労働歌 雪椿

2017-12-01 00:52:10 | 日記
 小林幸子のヒット曲「雪椿」を聴くたびに思い出す人が居る。
元職同業の方でイワン・アサノヴィッチより少し年上の方だった。
この曲は彼の持ち歌で、カラオケでは必ずと言っていいほど飛び出す曲だった。

イワン・アサノヴィッチは小林幸子のことは好きでも嫌いでもなかったが、歌唱力の在る歌手だとは思っていた。そして彼女は越後・新潟出身であった。
雪椿の作曲家は遠藤実で戦時中の疎開先が新潟だったので、小林幸子と半ば同郷。遠藤の亡き母を忍んでの曲だと言われている。
 一番の歌詞(作詞家:星野哲朗)である。
♪ 優しさと甲斐性のなさが  裏と表に付いている ♪
♪ そんな男に惚れたのだから 私がその分頑張りますと ♪
♪ 背をかがめて 微笑みかえす ♪
♪ 花は越後の 花は越後の 雪椿 ♪
彼の名はMOさんと言い、昨年の正月に70代前半、若くして亡くなられた。
MOさんは40代前半で本庁の課長に就任すると言うスピード出世で、当時は某県庁S部の出世頭だった。
イワン・アサノヴィッチは30代に千葉市のスナックに職場の同僚とたびたび出かける事があったが、そのスナックで幾度となくMOさんとお会いしたのが縁であった。敢えて言えば飲み仲間である同僚の大学の先輩にあたる方でもあった。MOさんとはスナックで会うたびに親交も深まっていった。
MOさんの十八番「雪椿」はお世辞にも上手いとは思えなかった。
しかし、亡くなられて一年。畑でこの「雪椿」を聴くたびに、ツト胸が熱くなるのである。
 MOさんは明るく優しい性格でエリートを鼻にかけるようなことは一度もなかった。だから多くの部下に慕われてもいた。同様にN部所属のイワン・アサノヴィッチも彼を慕っていた。
MOさんには県庁社会がつくり出す「威厳」は無かった。だから多くの部下が気楽に文字通り彼と一心同体で仕事ができたのである。そしてシャイなMOさん自身も「威厳」なんか無縁なものと言わんばかりに、飲み屋では常に気楽・気さく・フランクに明るく振る舞っていた。それは彼の本性であり、それ以外の何者でもなかったのである。
不幸にも部長昇任目前で脳梗塞を患い、車いす使用の障害者となってしまい、早期退職の道を選んだ。退職後、MOさんを慕う部下たちが、御用納めの日の年一で飲み会を続けた。イワン・アサノヴィッチも末席を汚した。
 ♪ 優しさと甲斐性のなさが  裏と表に付いている ♪
きっとMOさんは生前から、この誌のとおりだと自分自身を規定していたのではなかろうか。