イワン・アサノヴィッチの一日  畑と映画の好きな卒サラ男。

政官業癒着体質の某公共事業職場を定年退職。鞍馬天狗・鉄腕アトムの人類愛に未だに影響を受けっ放し。孫には目がない。(笑い)

中谷巌氏の懺悔 竹中平蔵の乱

2009-03-14 13:08:45 | 社会・経済

 中谷巌氏の懺悔に対して、竹中平蔵氏(以下敬称略)が反論した(2009年3月9日付け朝日新聞)。

竹中の反論記事の見出しは「改革続行」である。文中、竹中は『私は政策の専門家である。理念型で議論しても答えは出て来ない。』と開き直ったかに見えるようなことを言っているが、それは開き直りではないようだ。

そもそも彼に理念がないから理念から発した議論が出来ないことを暴露しているに過ぎない。

中谷はアメリカ発の”グローバル資本主義”が、遠くメイフラワー号で新大陸に夢・理想・決意を持って上陸した、ピューリタンたちの存在まで遡るのである。そして人工的に作られたアメリカという国と国民は宗教や民族・伝統の違いなどを決して前面に出すことなく、民主主義と自由経済主義に邁進し、他国・他民族にも要求することになったと見ている。

そのくせ宗教家カルヴァンの「予定説」に基づいたエリート主義が根底に潜んでいる。という見方も非常に面白いと思った。

事実、ブッシュ時代のネオコーン主義たちの根底にあったものはWASP(白人・アングロサクソン族・プロテスタント)であったと思われるからである。

中谷はブータン国やキューバ国民の経済優先主義を否定する例を引用して、今の日本人の経済と気持ちを述べている。

即ち、少しばかりの経済成長や利便性を求めたばかりに失われた絆・相互扶助精神の損失の膨大さである。

竹中は『マイナス成長でも良い、でも景気もよくして欲しいでは虫が良すぎる』と結論している。

いま多くの国民は慎ましく家族ともども暮らして行きたいと希求している。ごく一部のエセグローバル主義者たちの”足るを知ろう”としないリッチ思考の存在は否定しないが。

竹中は敢えて同じ国民が景気と安定の両方を求めているかのように混同させている。

国民の大多数は経済成長よりも安心・安全な社会と生活を求めているのである。国民の真の姿を信頼しない、経済マニュアル人間の竹中には、中谷の懺悔も空念仏にしか聞こえないのであろう。


『市長!と呼ばないで』

2009-03-01 23:44:05 | うんちく・小ネタ

  わが街の市長は昨秋10月に変わった。

「市政の流れを変えよう、市民委員会」選出の小池正孝氏(74歳、割り箸アート作家)が、政治的には全く無名で且つ高齢ながら、三期目を目指した現職を破り見事に当選した。

小池さん自身『現職市長に無投票当選なんかさせたくないと思い立候補したが、まさか私が当選するとは思っていなかった。』と当選後もさばけたことを言っている。『まさかのマサタカです!』などと駄洒落を飛ばしたりしている。

小池正孝氏は温厚でさばさばした方であるが気骨のある人である。幼少のころ5年ほど東京の江戸川区で暮らしたことのあるイワン・アサノヴィッチから見ると”江戸っ子気質”のある人に見える。

小池さんは市長就任式で市職員に向かって『わたしを市長と呼ばずに、小池さんと呼んでくれ』と挨拶した。

『職名で呼び合うと、その時点で上下の関係が決まってしまい、市民のための業務上の対等な議論が出来なくなってしまうから』と、いうのがその理由である。

全くそのとおりである。そもそも地方公務員法では意見が対立した場合、上司の意見が優先されると謳われている。すなわち、黙っていても上司の立場の優位は法律で保証されているのである。

ご承知のとおりサラリーマン世界では勤務時間内は勿論のこと、個人的な飲み会の場でも決して苗字で呼び合うことはない。

正確に言えば、部下が上司の職名を呼ばずに苗字で呼ぶことはない。もし上司を職名で呼ばずに苗字を使用すれば”身の程知らず・上司に反抗的・職場規律を乱す”ぐらいの評価を付けられるのが落ちである。

かかる状況は日本中の官民問わずの職場の実態である。

職場は機能組織である。職名呼びが苗字呼びに変わると職場規律やモラルが崩れ、機能が損なわれると恐れる度量の狭い輩がいまの日本社会を支配している証拠である。

『市長!と呼ばないで』と宣言した小池さんは、そんな日本の社会に風穴を明けようとする画期的なことを始めようとしている。