『人でもいいじゃないの、私たちは生きていさえいればそれでいいのよ』
映画「ヴイヨンの妻」のラストシーンで大西(=浅野忠信)の妻(佐知=松たか子)が放蕩・不埒な夫の手を取りながら静かに投げかける言葉である。
ヴイヨンとは15世紀のフランスの詩人で放蕩・不埒で殺人まで犯した人間。太宰治原作の「ヴイヨンの妻」の主人公は放蕩で不埒な作家であり、太宰自身のヴィヨンへの傾倒・共振が色濃く投影されている。
大西は売れ始めた新進の作家であるが、生活費は殆ど家に入れず飲み明かしてしまう。おまけに行く先々で女と関係を結んでしまうようなだらしのない男である。
大西は佐知が、マフラーの万引きをして警察官に捕まり『私は22年間まじめに生きて来た。好きな男性にマフラーを上げたいと思っただけです。』と抗弁している場に偶然居合わせたのである。たった1回の万引きをしたからと言って大袈裟に悪人扱いしないでくれと言う訳である。
そんな佐知を見て痛く共感した大西はその場でカネを払い身元引受人となり結婚する。
釈迦は100人斬りの罪を犯した男を弟子として迎えている。罪の大小はあるにせよ人間はおよそ罪深い存在であると釈迦は規定している。
イエスも売女を非難する群衆に「罪なき者、もって石を打て」と言っている。人とまでは言わないまでも、およそ罪のない人間は居ないと説いているのである。否むしろ人間である以上は誰もが必ず罪を持っている存在なのだと断言している。
行く先々で女性関係をつくってしまう大西ではあるが、佐知を慕っている男を飲んだ勢いで家に泊めてしまう。
深夜、縁側ですれ違う佐知とその男はフト抱き合う。
ガタン!という音と共に眠っていた筈の大西が外に駆けだして行く。佐知は暗闇の中でその後ろ姿を認め『見られてしまった。』と言いながら泣き崩れる。
大谷を愛して、外での不貞を愛するが故に飲み込み続けてきた佐知が、今は逆にその苦しみ・哀しみを大西に与えてしまったのである。
自分の不貞を大西に見られたことが悲しいのではない。
知らなければ味わう必要のない苦しみ・哀しみを不用意に他人に与えてしまった後悔と、深夜に逃げ出す大西が佐知をいまだに愛すればこその逃避だと気付かされての涙なのである。
「ドロドロの愛」などとは思わない、それでも愛し合うという「やるせない愛」のように思える。
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