世界は原質から生じ、長い長い期間、輪廻転生する。
そこには「楽」(純質)もあり「苦」(激質)もあり、「迷妄」(翳質)もある。
その3種類が入り混じって世界の状態を規定している。
「楽」は神が多く持つ性質だが、神が「楽」のみを持つわけではない。
神は輪廻のサイクルの中では先頭に位置し、人間や畜生と比べると圧倒的に楽を享受する場にあることは想像しやすいだろう。
プラクリティは世界が分化する前の状態だ。
そして、プラクリティの創造活動は、「自己」の解脱のためにあるのだという。
そして、そのための見返りを求めないのだという。
「プルシャ」が知識を得て迷いから離れ、解脱するために存在するという。
これがサーンキヤ哲学の論理の起結である。
該当する頌(詩節)を書き出しておこう。
〈頌56〉
以上のようにして、心にはじまり特殊なものである元素に至るまでの、原質によるこの創造活動は、それぞれの自己の解脱のためであり、あたかも自身のためであるかのようであるが、実は他者のためなのである。
〈頌57〉
たとえば、知性を持たない牛乳が、仔牛の成長のために活動するように、主要なるものは自己の解脱のために活動する。
〈頌58〉
たとえば、世間の人が切なる思いを鎮めるために行為に赴くように、未顕現のもの(=原質)は自己が解脱することのために活動する。
〈頌59〉
たとえば、踊り妓が、観客に[自分の踊りを]見せたのちに踊りをやめるように、原質は、自己にみずからを明かしたのちに活動をやめる。
〈頌60〉
美徳のある尽くす女は、美徳のない尽くさない男であっても、その男のためになることを、[自分の]ためにはならないのに、さまざまな手立てを持って為すのである。
原質、主要なるもの、未顕現のものは全てプラクリティの言い換えである。
また、牛乳も踊り妓も、美徳のある尽くす女も、プラクリティの比喩である。
自己とはプルシャのことだ。
〈頌60〉に至っては、比喩とはいえ、プルシャを「美徳のない尽くさない男」とし、それに対してプラクリティを「美徳のある尽くす女」とする。
プルシャがプラクリティの上位に存在するのではないと、世俗的な対比を用いて高らかに宣言している。
プラクリティについての記述がプルシャについての記述より圧倒的に多いまま、あといくつかの頌を残してこの根本聖典「サーンキヤ・カーリカー」は終わる。
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