そらみつ みそら file  ~To Provide You With Unity~

こころとからだについて、気がついたことを書いていきます。
『』の中の言葉は、見えない世界から伝わってきたものです。

山頂から出てきたもの

2007-10-27 22:31:46 | 癒し
長野県と新潟県の県境に近い、黒姫山に登ってきました。
信濃富士の名で親しまれる、美しい山です。

ちょうど紅葉で美しい季節でした。
天気予報はだいぶ雲も厚くなると伝えていましたが、登山口に着くと、雲一つない快晴でした。
わたしの山行きは、「こんなに!?」というほど天候が荒れることもありますが、今日のような紅葉では、それはもったいない!
日本晴れに感謝しました。



自然の音しか聞こえない山の中は、自分と、そして自然と対話する絶好の機会です。
わたしたちは、いつもいつも、「言葉」を使って考えてしまいます。
「苦しいなあ」と感じるのも、言葉を通じてです。
自分でつくり出している言葉にしばらく黙ってもらって、「ただそこに在る」ありがたさに身をゆだねてしまうと、その場が至福の瞬間になります。

見晴らしのいい尾根に出て、遠くに目をやると、もう頂上が雪に覆われている山がふえてきています。
紅葉の黄や赤、コメツガなどの針葉樹の濃い緑、笹の黄緑色、遠くの山の頂の白、そしていっぱいに広がる空のすがすがしい青、と、自然界にしかつくり出せないコントラストを満喫します。
太陽は下界でとは違う、強さと優しさで存在感を示しています。



頂上に着いて、小さなほこらの前で目をつぶって祈ると、足下がぐらっとゆれた感覚がありました。
何かが突き上げてくるような感じです。
そして今度は言葉で、この突き上げるエネルギーがこれからどのように働いていくのかを伝えてきました。
今まだ地上までは出てきていないエネルギーは、頂上から少し歩いて下った池まで行く間に出てくることも伝わってきました。

火口原とよばれるその平地は、さまざまな表情を見せるこの山の中でもひときわ輝きを放っていました。
その一帯の池にはオオサンショウウオが生息しているそうです。



そしてその火口原に足を踏み入れ、さっきまでいた頂上に目をやった時、雲の形でエネルギーが噴出しているのが見えました。
頂上で足の下に感じたエネルギーは地を揺らすような大きなものでしたが、こうして実際に目で確認したそれは、かわいくて実はちょっと拍子抜けしたのでした。



しばし休息し、登りとは違うルートで下山しはじめて、ふとまた頭上を見上げると、今度は見事に大きい雲がありました。
目に見えないものが顕在化する、その妙を味わいました。



ある土地を訪れることは、その土地の見えないいのちとじかに交流することです。
じっくりと対面し、対話をすることで、その土地にも必ず変化は起きますし、当人が気づく形で、その変化を見せてくれるのです。
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聖域で感じた進化

2007-10-17 15:00:08 | 癒し
先日、地方のある有名な神社に参拝する機会がありました。
わたしが住んでいるところからは距離があり、そう頻繁に行くところではありません。
緑多く大好きな地域なので、行くことを考えると心がはずみます。

ただ、好きなのはその地方であって、その地を代表する”顔”である神社ではありませんでした。
その神社があまりにも汚れていたからです。

10年ほど前、はじめてその神社を訪れたときにまず驚いたのは、参道の汚さでした。
わきに小さな池がありましたが、よどんでいて臭ってきそうです。
そして手水舎のすぐ横に喫煙所が設けてありました。
参拝に訪れて手を洗い口を漱ぐわたしたちは、タバコの煙に否応なくまかれてしまいます。
拝殿に歩きつくまでにげんなりしてしまいます。
祈りの場でも、商魂ばかり目につき、清いいのちが見当たりません。

後に何度かその地方を訪れた時、その神社には参拝せずにいました。
鳥居内のレストランに入るためだけに立ち寄ったりしました。
清らかないのちを感じられるところは鳥居の外、自然の中のそこかしこにあったのですから。


今回、ご一緒した方々とその神社に参拝することになりました。
鳥居をくぐり、階段を上ろうとしたときに
『(神社が)進化した』
と聞こえてきました。
早朝でしたがすでに参道をそうじする人の姿があり、きれいに浄められています。
夜の間降っていた雨のために石畳が光っています。

手水舎の脇の喫煙スペースは取り除かれていました。
階段を上っている間に、
『ここには水神がいる』
と聞こえてきます。

そして、拝殿。
一緒に参拝した一人一人に、神の声が届けられました。
人は神に感謝し、神は人を優しく導く。
神社本来の姿が戻ってきていました。

”進化”ではなく、元のかたちに返っただけ、というのが本当のところだと思います。
時代がそこにまっとうに流れたのでしょうが、聖なる顔をしていながらまだまだ汚れたかたちのまま、平気でいるところは少なくありません。
汚れたところにはさらに汚れが集まります。
土地も人も同じこと、油断はできません。


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