顔を合わせる時間は多いのに、なかなか思うようにいかないのが夫婦の関係です。
言い分にはどちらにも一理あるので、良いか悪いか、正しいか間違っているかという判断基準では、いつまでたっても埋めることの出来ない溝が残ります。
とくに一方的にどちらかに原因がある場合は別として、なんとなく関係が稀薄になったり分かり合えなくなったりすることは、自分に気づき、相手に気づいていなければ、自然と起きてしまうことです。
一旦そういう状況にとらわれれば、関係をよくしたいという思いがあるからこそですが、心の中に抑圧された感情が起きてきます。
簡単に言ってしまえば、それは相手を責めるか、自分を責めてしまうか、という2つのパターンに分けられます。
なんとなく相手への不足感もあるけれど、自分自身にも融かすことの出来ない暗鬱とした領域がある、という人は多いと思います。
お互いの人生にそれぞれ歴史があり、中にはどんなに近い人間であっても触れさせられない一面もあります。
過去のできごと、感情の動きであるかもしれないし、言葉では表現の不可能な場合もあるでしょう。
それをすべてひらいて相手に見せていくのが必要とは思いません。
自分を責めているだけでは前進がありません。
”自分を責める”というものの見方そのままで相手も見ることになり、それは実像とはいえません。
自分を責める思いは、知らない間に相手を責める思いにすり替わっていることもあります。
何人か、こんな感覚を打ち明けてくださった方がいたのですが、それに対する答えが、よく似ていました。
『(ご主人の)涙を拭いてあげなさい。』
『(相手の)哀しみ、涙に気づきなさい。』
攻撃対象をどこかに見いだすのではなく、相手に一歩踏み込んで、配慮することをすすめる言葉でした。
自分の哀しみに焦点を当てるのではなく、相手の哀しみを観よとのことでした。
漠然とそんなものがあるような気がしていたので、もう少し相手を理解していってみます、というのがその人たちの共通の反応でした。
その言葉の中に力強さがあるのがわかりました。
自分のことではなく相手のことなればこそ、力が出せることもあります。
そして振り返ってみれば自分も元気になっています。
相手を通じて自分を知り、人間として優しくなっていく。
相手を思いやっていて、気がつけば自分が癒されている。
夫婦になるほどの深い縁からは、醸成されていくものも深いと思うのです。
言い分にはどちらにも一理あるので、良いか悪いか、正しいか間違っているかという判断基準では、いつまでたっても埋めることの出来ない溝が残ります。
とくに一方的にどちらかに原因がある場合は別として、なんとなく関係が稀薄になったり分かり合えなくなったりすることは、自分に気づき、相手に気づいていなければ、自然と起きてしまうことです。
一旦そういう状況にとらわれれば、関係をよくしたいという思いがあるからこそですが、心の中に抑圧された感情が起きてきます。
簡単に言ってしまえば、それは相手を責めるか、自分を責めてしまうか、という2つのパターンに分けられます。
なんとなく相手への不足感もあるけれど、自分自身にも融かすことの出来ない暗鬱とした領域がある、という人は多いと思います。
お互いの人生にそれぞれ歴史があり、中にはどんなに近い人間であっても触れさせられない一面もあります。
過去のできごと、感情の動きであるかもしれないし、言葉では表現の不可能な場合もあるでしょう。
それをすべてひらいて相手に見せていくのが必要とは思いません。
自分を責めているだけでは前進がありません。
”自分を責める”というものの見方そのままで相手も見ることになり、それは実像とはいえません。
自分を責める思いは、知らない間に相手を責める思いにすり替わっていることもあります。
何人か、こんな感覚を打ち明けてくださった方がいたのですが、それに対する答えが、よく似ていました。
『(ご主人の)涙を拭いてあげなさい。』
『(相手の)哀しみ、涙に気づきなさい。』
攻撃対象をどこかに見いだすのではなく、相手に一歩踏み込んで、配慮することをすすめる言葉でした。
自分の哀しみに焦点を当てるのではなく、相手の哀しみを観よとのことでした。
漠然とそんなものがあるような気がしていたので、もう少し相手を理解していってみます、というのがその人たちの共通の反応でした。
その言葉の中に力強さがあるのがわかりました。
自分のことではなく相手のことなればこそ、力が出せることもあります。
そして振り返ってみれば自分も元気になっています。
相手を通じて自分を知り、人間として優しくなっていく。
相手を思いやっていて、気がつけば自分が癒されている。
夫婦になるほどの深い縁からは、醸成されていくものも深いと思うのです。