そらみつ みそら file  ~To Provide You With Unity~

こころとからだについて、気がついたことを書いていきます。
『』の中の言葉は、見えない世界から伝わってきたものです。

抽象的な答えについて

2016-01-28 11:48:35 | 癒し

見えない世界からの明快な答えがあると非常に楽です。

いい意味で自分で考える必要がなくなり、選択も委ねることができますから。

具体的な答えが論理の通った理由とともに示されるのは、わたしとしても気持ちが良いものです。

 

一方でご本人にその場で意味がわからない言葉が伝えられることもあります。

イエスかノーかを求めている問いに対してさえ、抽象的でどう捉えていいかわからないものが降りる場合です。

しかしそういう言葉こそ、本人の気づきと一緒になったときには強い力をもたらすものと考えます。

 

本人の気づきがあって初めて変革はもたらされます。

見えない世界からの言葉は「納得」させるかもしれませんが、「気づき」は自分の中から湧き上がってこなくてはなりません。

言葉は気づきへの触媒にはなりますが、気づきそのものにはなりえません。

 

気づきは必ずしもセッションを受けているときにやってくるものではありません。

問いとして持っていれば、どの瞬間にでもひらめく可能性があるものです。

そのようにして得られた気づきと、セッションのときに理解できなかった抽象的な言葉が合致すると強固なものになります。

 

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正体をはっきりさせる

2016-01-22 11:45:22 | 癒し

不安なとき、落ち着かないときに何が原因かわかっていますか?

あるいはわかろうとしていますか?

 

原因をはっきりさせると不安の度合いは小さくなります。

それに対して何をしたらいいかわかれば、さらに不安が弱くなります。

第一歩をどう踏み出したらいいのかがはっきりわかれば、かなり不安は軽減されます。

実際にその一歩を踏み出すとその先の道が示され、不安から抜け出す具体的なプロセスに入ります。

 

不安の正体をまずはっきりと捉えることです。

直視せずに逃げようとすると悪循環に陥ります。

 

不安の正体を捉えると、論理的に何がなされるべきか判断することができますし、もしかしたら霊的なインスピレーションがはたらくかもしれません。

 

さらに言うならば、不安になり始めたら何か変化が起き始めているということですから、そこにしっかりと気づくことです。

「ピンチはチャンス」というのは、変わるタイミング、行動するタイミングだからです。

 
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「つい」やってしまう 補足

2016-01-21 10:20:30 | 癒し

この女性の場合、

<身近な人が自分に何事かを注意してきた時に「つい」言い返してしまうケースが多く感じられました。>

と書きました。

それが捨て台詞のようになってしまうパターンも感じられます。

 

一瞬の衝動に対する忍耐が必要です。

それで本当にスキッとするでしょうか。

捨て台詞で自分に良い気分を残すことはあるでしょうか?

恐らくないでしょう。

捨て台詞には、相手に不快な感覚を持たせるということが目的にあるからです。

人を嫌な気分にさせることは、人の本質として、喜びではありません。

むしろ、

『相手に余地を残しておくことが必要』

です。

 

「つい」やってしまう は、外的なストレスから身を守る反応です。

「つい」やってしまう瞬間に、自分に向かってくるある物事が「自分にとってネガティブなもの」に変わります。

自分の中でのネガティブなストレスとして根を張ることになります。

その衝動を起こさなければ、それはただの流れの一つです。

 

それが単発的なもので、たまたま起きたものならばまだましなのですが、反射的なその行動をいつでも取れるように身構えている状態になると、まだ物事が自分に向かってくるより前からそれはネガティブなストレスになります。

はじめから嫌なことを想定していないか。

そこも気付いておくべきことと言えそうです。

 

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「つい」やってしまう

2016-01-20 15:27:54 | 癒し

40歳代の女性です。

『仮面が外れていない。』

とまず聞こえてきます。

 

わたしは、そこに確実に痛みがあるのがわかって触っています。

どのくらい痛むのか、どのように痛むのかもわかります。

鋭い痛み、鈍い痛み、間欠的にやってくる痛み、かすかにつままれているような気持ち悪い感触など、細かいことまでわかるのは、わたしの身体に同じ感覚がやってきているからです。

ですので自分の身体感覚を通し、身体の反応が一番よく返ってくる角度や深度で触れているのですが、わたしのその触れ方を信頼せず、顔をしかめて見せたりして「痛い」ことをアピールしてくる方があります。

この女性もそうでした。

 

セッションが進みしばらくする中で、

『「つい」やってしまうのをやめなさい。』

という言葉が降りてきました。

外からやってくる刺激に対して、「つい」反射的に出る行動があるようです。

特に、身近な人が自分に何事かを注意してきた時に「つい」言い返してしまうケースが多く感じられました。

 

人のペースで物事が進んでいるときに、「つい」主導権を取ろうとしてしまいます。

自分にとって嫌な場合ではなくても、何かを付け加えて自分の色を入れてしまうのです。

 

『パターンを外していくことで、あなたは守られているということをより実感できる。』

と伝えてきます。

セッション中に触れられたときに痛みをアピールすることも同じところから出てくる行動でした。

完全に信頼し、委ねることができていないのです。

 

信頼し、とことんまで自分の作為をなくしてみると、何もしなかった場合には「こういう結果になるのか」とわかります。

ところが、自分の身を守るために「つい」動いてしまうのです。

自分で流れを切ってしまい、自分のペースにしてしまうために、そうしなかった場合にどれだけのことが起こるのかということが分かり得ないのです。

自分の意思を介在させなくても最終的にどれだけ自分が守られているかを理解する前に、自分で手を下してしまっていることになります。

 

「つい」やってしまう、を外してみると、深いことがいろいろ見えてきます。

それが仮面を取ることに通じてくるのです。

 

『自分が干渉する余地を減らしてみてください。

自分に起きてくる物事への干渉を減らすということ。 

それをできるだけ控えて、あえて見るということ。 

気持ちはまだまだ落ち着きます。 

もっと落ち着くことができる。 

それには人のせいにしないことです。 

そこは乗り越えていくべきポイントです。 』

 

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旅立ちのタイミング

2016-01-19 06:37:17 | 癒し

人が亡くなるということを通じて考えさせられることが、最近もう一件ありました。

数年前から定期的に会いに来てくださった女性のご主人は、だんだん体が動かなくなっていく病に侵されていました。
病気の進行は確実でしたが緩やかで、彼女の気持ちも病気を受け入れながらそれなりにだんだん落ち着いてきました。
ご主人との時間を大事にしながら、自分自身の生活の仕方も、ある部分は割り切って楽しむように変えていったのは最近になってのことです。
初めてお会いしたときに比べると表情もずいぶんと明るくなりました。

昨年6月のセッションでは、局面が変わることが聞こえてきました。
『ご主人が亡くなるのが近い』
というのです。
ご主人は50歳代半ばと若いですし、どのように伝えていいのか迷いましたが、わざわざ伝えてきているのだからそのままの言葉を届ける意味があるのだと思い、ご主人としっかり向き合うように伝えました。

半年後の12月にまた会いに来てくださいました。
「実は」と切り出し、最近ご主人が亡くなったことをお話しくださいました。
そして、その亡くなり方が非常にきれいで、家族で困ることが何もなかったということでした。

6月にお話しした時点では、まだご主人が旅立つ日は確定されていなかったと思います。
彼女が言葉を受け入れ、ご主人に対して改めて誠実に大事に接するようになり、ご主人も満足できて最期を迎えるのを静かに受け入れることができたのだと思います。

そのように準備されて迎えられた死だからこそ、自分の周りを汚すことなく、ゴタゴタしたものを全てもって引き上げたのでしょう。

どのような病気だったか、生前どのような苦しみ方をしたか、というのはその人の人生の尺度にはなりません。
必要あって用意された人生を歩んだという事実なだけです。

このご夫婦のケースを見て、死は心配するもの、必要以上に構えて向き合うものではないという思いを新たにしました。
「この人が死んだらどうしよう」
というびくびくした思いから、セッションにいらしてご質問くださる方も多くあります。

しかし生が完璧であるように死も完璧です。
地上に置いていくものは置いて、自分とともに持っていくものは持って完全なタイミングで旅立つのです。

ただ、時間をかけないとその完全さがわからないことがあるのも事実です。

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ある霊障の浄化 3

2016-01-18 06:09:38 | 癒し

約束の満月の日、11月26日です。

前日から関東は急な寒気に見舞われました。
夜中から明け方にかけては強い土砂降り。
朝から関東は荒れ模様、というニュース通り、激しい風雨にさらされる電車の中、横須賀に向かいました。
奥さん一人だけのたましいの問題ではなく、土地の多くのいのちが関わってくると、このような荒れ方は不思議ではないことをAさんに話しました。
奥さんはもう動けないとは言え、生死に緊急を要するものではなく、いつまでこのような状態であるのか読めないだけにAさんの悩みも深かったのですが、急に危篤に陥り、あっという間に亡くなったことにAさんは驚いていました。
亡くなった後の諸々は、不思議なほどすべてがうまく進行したとのことでした。

彼は、伝えていたものは準備していたのですが、まだそれらを埋める穴を掘っていませんでした。
庭に出て穴を掘るべき場所を指定しましたが、全部にわたしが付き添う時間はなかったので後で掘ってもらい、日没後に『満月の力を借りて』を実現させることになりました。

仏壇に向かい、必要な手順で祈ります。
『オームと9回唱えよ。』との言葉で、一回ずつ、息を長く声を出しました。
4回目から響きが変わり、わたし以外の声が加わったのが分かりました。
5回目に急に場が静かになりました。
音の問題ではなく、「何もなくなった」瞬間が訪れたのです。祈りの終わりに彼女のたましいも解放されたのが分かりました。

全てが終わり、彼が話しました。
亡くなった後に、仏壇に向かっているときに「今までありがとう」と向こうから伝えてきたのが分かったそうです。
彼女に愛を伝えるという中で彼女を見送ることが出来たことを、深く喜んでいました。

 
居間に戻ると太陽の光が部屋の奥まで差し込んでいて、こんなにも明るくなる部屋なのかとはじめて気づきました。
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ある霊障の浄化 2

2016-01-17 09:16:08 | 癒し

セッションでは、満月の力を借りて家の浄化をするように伝えてきました。
また、浦賀水道を挟んだ房総半島の突端、『洲崎神社の助けを得よ』というアドバイスもありました。

次の満月は数日後でしたからわたしも彼も準備ができませんし、翌月の満月もわたしはすでに予定が入っています。
近いところで可能なのは11月26日でした。
彼もその日は仕事を休むことにします。

お浄めの仕方はトルコ石、ドングリ、塩を麻布で包んで、家の周り6ヶ所に穴を掘り埋めるというものでした。
埋める際に洲崎神社の土をいただいてきておいて、一緒に埋めるように伝えてきました。
実は始めはドングリではなく、「鳥の頭」と指定してきたのです。
事の異様さを思い知らされますが、さすがにそれは出来ません。
何度か聞いた結果、「ドングリ」に修正してくれました。

それにより
『大いなる清掃を。駆逐。』
ということが起きるようです。
後一つ、重要なメッセージがありました。
それは
『奥さんに「愛している」と伝えよ。』
というものでした。
そのメッセージに対しては、その気持ちを出すのは非常に難しい、と彼は複雑な顔をしました。
しかし、
「共にあったことへの感謝から始めてください。」
と伝え、その日は分かれました。

一ヶ月後、驚きのメールが彼を紹介してくださった東京の方からありました。
<つい先日、Aさんの奥様がお亡くなりになりました。

来月の満月の日に、Aさんのご自宅に来てくださるとの事を聞いています。
いろいろ大変な様子ですが、
よろしくお願いします。>
というものでした。

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ある霊障の浄化 1

2016-01-15 17:49:37 | 癒し
昨年9月末にいらしたその男性は横須賀在住の方でした。
その方の悩みは特異で深いものでした。

奥さんと、もう成人したお子さん二人の4人家族。
奥さんが虫垂炎と診断され、手術を受けたのが7年前でした。
術後が芳しくなく、片足全体に膿がたまる症状に悩まされ始めました。
はじめのうちは自宅で生活できる程度でしたが、次第に身体の自由が利かなくなったのでご主人の手には負えなくなり、介護施設と、体調が悪化したときに入る病院とで生活するようになりました。

現在では口も聞くことも不可能になり、コミュニケーションの道が閉ざされてきました。
元々不仲気味で、どうにもならず彼は途方に暮れるはめになりました。

奥さんが身体をこわし始めた当初、県外の祈祷師に何度か除霊を依頼したことがあるそうです。
その方には、多くの霊が憑いており除霊は困難と言われました。
こういうことを言う霊能者には眉唾物も多いのですが、彼に見てもらった後は少しの落ち着きもあったし、彼に会うことを告げなくても直前から奥さんが激しく反応し始めたそうですから、実際に力がある方だったのでしょう。

わたしの見立てでも霊障は入っていました。
近隣の血なまぐさい地域からの影響を感じるのです。
きっかけは医療によるもので医療ミスと言っていいのかもしれませんが、霊障により事態が引き起こされ、悪化の一途をたどったようです。

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橘諸兄を追う 2

2016-01-13 07:31:53 | 旅の記録

岸和田の墓の存在から調べはじめてみると、橘諸兄はその地域に非常に縁があることがわかりました。

その古墳は久米田寺という寺の周辺にあるということでした。

久米田寺は8世紀の初めに行基によって築かれた大阪最大のため池、久米田池を管理するための寺で、その寺の大檀越が橘諸兄でした。

つまり、橘諸兄はため池建造の重要な支援者だったことになります。

 

11月11日に岸和田周辺をまわってから、最後に久米田池と久米田寺を訪れました。

久米田池です。

遠方の山々の背後には和泉山脈が控えます。

池が造られた当時の風景は壮大だったことでしょう。

 

久米田寺には池の鎮守として、白龍弁財天の祠がありました。

『神威』を感じます。

 

もう日が暮れる時間になりました。

お寺の方に、橘諸兄の墓について教えていただきました。

 

橘諸兄の古墳とされる場所は、寺を挟んで池の反対側にある小山でした。

 

しかし、墓の構造を考察すると、橘諸兄が亡くなった頃に建てられたものではないことが判明します。

以前は彼の供養塔が小山の上にありましたが、現在は寺の境内地に移されて大事にされています。

墓がここではないにせよ、寺や地域にとって大恩の人なのは変わりありません。

 

供養塔に向き合うと、

『蘇り。

ある人物が立つ。』

と伝わってきました。

 

橘諸兄のいのちに縁のあるたましいが動き始めることを予感しました。

 
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Changes

2016-01-12 17:42:52 | Weblog
David Bowie - Changes (Live)




”Changes” という名のこの曲は、思い出せないほど何度も自然に頭の中を流れ続けてきました。

Ch-ch-ch-ch-changes
(Turn and face the strange)
Ch-ch-changes
Don't want to be a richer man
Ch-ch-ch-ch-changes
(Turn and face the strange)
Ch-ch-changes
Just gonna have to be a different man
Time may change me
But I can't trace time

「振り向いて、見知らぬものに向き合う。」

Strange fascination, fascinating me
Changes are taking the pace
I'm going through

「変化は歩みを続け、ぼくはそれを通り抜けていく。」


わたしの中でいつまでもいのちを持ち続ける曲です。
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