そらみつ みそら file  ~To Provide You With Unity~

こころとからだについて、気がついたことを書いていきます。
『』の中の言葉は、見えない世界から伝わってきたものです。

本当の病名

2006-07-23 07:09:44 | 癒し
病気を引き起こす見えない原因の一番はネガティブな思いです。
どんな症状であれ、否定的、悲観的に思うことが直接的、間接的に病気を誘発します。
いまある自分の生を肯定し、幸せに思い、楽しく笑って生きていくことが健康への一番の近道になります。

昨年末にはじめてお会いしたとき、この70歳代の女性は入院中でした。
ご縁の方が、入院先から知人宅まで車で2時間の道のりを連れてきて下さいました。
脳梗塞から足元はおぼつかなくなっており、会話や呼吸もままならない状態でした。

セッションをはじめてまず聞こえてきたのは、生きていく意思が非常に弱くなっていることを示す彼女自身の言葉でした。
ご本人の弱気な心がそのまま私に伝わってきました。
そのセッションの間、私は基本的に言葉を伝えませんでした。
ただ彼女との間で、声のない会話を続けました。

その日はやわらかい日差しが印象的な日でした。
私は窓の外の木や美しい太陽を眺めながら、おだやかな気持で彼女との会話を続けていました。
その心地よい空間にあって、数々の困難を越えて知人宅まで来ることが出来た彼女にお会いできたことに、ただ静かに感謝しているひとときでした。

時間としてはそう長いセッションではありませんでしたが、終わる時には彼女の「生への強い意思」がはっきりと伝わるようになり、私自身が心地よくセッションを終えました。
その後彼女は劇的に回復して退院し、仕事にも復帰したことを聞きました。

そして先日、およそ7ヶ月ぶりに彼女のセッションをすることになりました。
今回は彼女のご自宅にうかがうことになっていました。
車で地図を見ながら住所をたずねあてたとき、玄関先で出迎えて下さったのは見違えるように元気になっていた彼女で、私は思わず胸が熱くなりました。
前回はちゃんと会話した記憶もありませんでしたから、再会は私にとって大きな感動でした。

今回のセッションでは前回と違い、下りてきた言葉を彼女に伝えていきました。
その中で印象的だった言葉が、
『私の本当の病名は、”臆病”です。』
というものでした。

もともとしっかりとした生活をなさっていた方だから、回復の度合いも大きかったのだと思います。
しかしそんな中でもどうしても将来の心配をしてしまうのです。
そこから気が弱くなってしまうわけです。

まだまだこの方は元気になっていくことが出来る。
そして、その流れは前回のセッションから今に至るまで続いており、ここまで回復してきた今だからこそ伝えられる言葉が、それだったのだと思います。
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それって「感謝」?

2006-07-11 23:47:18 | 癒し
「感謝していないことはない」と言う方がいます。
これは、言葉の上では成り立っているように聞こえます。
しかし、感謝というものの本質を考えると、ずれていると思えるのです。

本当の感謝とは、心の奥底からのよろこびであり、ほかの何の感情も挟む余地のない体験です。
「ありがとう」と表面上は言っておきながら不信感をもつ、ということが「本当の感謝」にはあり得る話ではありません。

本当に感謝したとき、おなかの底があたたかくなります。
そして呼吸をするごとに、その温かさが全身にまわっていきます。
体の中に固さがなくなり、どんどんゆるやかになり、溶けていくかのように感じます。

つまり、病気がなくなるのです。
病気を引き起こす要素がなくなっていくのです。

「感謝していないことはない」
ではなく、
「本当に感謝している」
と、自信をもって言えるのかどうかが、健康に不安をもつか否かの分かれるところであると思います。
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分けることではない

2006-07-09 15:20:00 | 癒し
ある場所に行って感謝してくれば、体調が良くなる。
感謝の生活を続けていれば、人間関係がよくなる。
経済的な環境がよくなってくる。

実際にあることですが、それが目的で動くようになったらどうなっていくでしょう。

「感謝の生活をしていれば、困ることはなく喜びごとばかりになっていく。」
それは確かなのですが、本当は
「感謝の生活をしていれば」
と、
「困ることはなく喜びごとばかりになっていく」
というのは分けられるものではないと思うのです。

困ることがなくなるために、感謝の生活をするのでしょうか。
人生に喜びがほしいから、感謝をするのでしょうか。
ある目的を達成するために感謝をしていくのならば、目的達成と同時に感謝が必要なくなってしまいます。

「普段、神社に行って感謝をしてください。」
と言ったら、戸惑った顔をした人がいました。
「どこの神社に行ったらいいのですか?」

「前に言われた場所は全部行きました。」
とおっしゃるのですが、自分の生活の、あるせまい一部分を確保するためだけに、見えない世界を利用するのなら寂しいことです。
そんな気持ちだけで行くのだったら、一時的に変化は生まれても、根本的な喜びは何も得られないでしょう。
実際に大局的な変化はその人に起きていないのです。

「ある場所に行って感謝して」、結果的に「生活に変化が生まれる」
というのは、自分が見えない世界と一体となっていることを「知る」きっかけにすぎません。
そこに気づくための神社であり、神なのです。
感じられる人は、どこでも感じられるのです。

「喜びごとに囲まれて暮らしている人は、すべてに感謝の生活をしている」
と伝えた方がいいのかもしれません。
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