2017年8月に一段落した流れがある。
これは物部氏と始祖のニギハヤヒを追っていくものだった。
一段落というか、尻すぼみに終わってしまった感がその時はあった。
流れの始まりはそれよりも数年前、ニギハヤヒに関しての質問を何度かのセッションで受けたことからだ。
ニギハヤヒは今どういう状態にあるか、などという質問だったと思う。
ニギハヤヒはすでに復活していることを伝えてきたり、その時々で興味深い答えが降ろされたのだが、だんだんと焦点が絞られていくにつれ、それがどうしてもペルシャ方面につながってしまうことは先日書いた。
ゾロアスター、ミトラ、と言った言葉がキーワードだ。
その一方で、
『伊雑宮は地底に物部群を隠す』
と伝えられて、行くように促された。
2017年8月1日。
伊勢内宮、伊勢の天岩戸など回った後、伊雑宮へ。
ここでの特筆は着いた時の強い雨だ。
到着してもとても車外に出られるものではない。
雨の激しさ、音の強さは洗車機の中にいるところを想像してもらうと速い。
10分以上の時間がたった。
その雨が
『虚仮が終わった。』
『アウタースペースに出ろ。』
という言葉とともにさっと上がる。
(先日の<虚仮>のとき、どこかで一度出てきた言葉だとうっすら感じていたが、この時のことだった。)
拝殿に向かった時には、
『本物を隠している。
流れが変わる。』
と言ったメッセージ。
重みがありそうだが、それで言葉は終わり、次へのつなぎの案内もなかった。
それっきりだったので、尻すぼみという印象だったのだ。
平成から令和への御代替りを受け、令和への展望も平成への感謝の続きの流れで書くつもりでいたが早一ヶ月。
令和の時代も引き続きよろしくお願い致します。
令和最初の1日は、京都で東寺と下鴨神社を参拝。
京都はぐずついた雨模様で、その分気持ちも落ち着く。
天皇家の勢いがいい形で増しているのを感じる。
分岐点は昨年10月後半だった。
これまでキリスト教勢力が強かったのが、その時期を境に天皇家の力が優勢になっている。
背後にはやはりウシのエネルギーがはたらいている。
キリスト教が国教に認められて流行るようになった以前、ローマで隆盛を誇ったのがミトラ教である。
その名の通り、太陽神ミトラを崇拝する信仰で、ゾロアスター教が発生する以前にイラン高原にあったものである。
ゾロアスター教は善悪二元論を完成させ、ユダヤ教やキリスト教に多くの影響を与えている。
ゾロアスター教は発生の過程で地域で信仰されていたミトラ神を無視できず、その教義の中に呑み込んでいった。
後発でインド亜大陸にゾロアスター教徒として移住したアーリア人の子孫は、インド国内で根強い経済的地位を保っている。
ムンバイには彼らの独特な葬送法である曝葬(鳥葬)施設も残っている。
一方でゾロアスター教が発生するずっと早い段階でイラン高原からインド亜大陸に移動、定住していったアーリア人はバラモン教を展開し、のちに現地のドラヴィダ族と融合していく中でヒンドゥー教が誕生する。
仏教はヒンドゥー教文化を背景に出てきたものだから、その中にもミトラ神の変形したものが存在する。
マイトレーヤであり、弥勒菩薩である。
そのミトラが、ミトラとして日本にやってきている。
なぜミトラにつながっていったか。
それは物部氏を追っていったことに始まる。
物部氏は大陸からやってきた氏族だということは多くの人が書いているが、伝えてくるメッセージから判断するに、どうやらユダヤ系ではなくペルシャ系なのではないか。
そして遡りうる一番古い段階として、ミトラに到達したのだ。
一方、ミトラと同タイプのエネルギーとして、「アシュラ」「アスラ」というものも出てきている。
僕はミトラとアスラを同じものと受け止めているが、アスラはもしかしたらミトラのコアになるものかもしれない。
さて、ミトラ教は牛を屠る密儀に特徴がある。
牛を屠るということは牛を退治することではない。
牛を屠ることで、新たに牛の再生を図る儀式なのである。
そしてミトラ自身が牡牛の姿で描かれていることがあり、要するにミトラを再生する儀式を牛を屠ることで行なっているのだ。
ハトホルのような女性的エネルギーとしてのウシをこれまで感じていたが、こんなタイプのウシのエネルギーも活躍し始めているのだ。
また、去年は牛頭天王の働きが強くなっていくのも見られた。
ウシとともにはたらくと伝えた方々が、縁深い場所に牛頭天王の社があったことに気づいたと報告をいただいたりもしている。
4月30日から5月1日にかけての御代替りは、牛頭天王の場所に導かれるのかもしれないと頭では考えたのだが、そうはならなかった。
その代わり、ちょっとおかしなことがあった。
同行者の希望や、入った店の関係で、2日間牛肉ばかり食べ続けたことだ。
それも生の状態に近いものをその都度。
ちなみに僕には「食べないもの」「食べられないもの」はない。
一人だったら肉を食べることは少ないのだが、その時の状況で肉食は一切厭わない。
かといって、日本でこの2日間のように牛を食べ続けるということは稀で、今後の暗示としてミトラの密儀に近いことを現実社会で差し支えない形で表現することになったのだろうと思っている。
ここ数年ペルシャに気持ちが接近してきていた僕は、今アメリカの圧力の下にあるイランを見ると、今後の動向に心を揺さぶられる。