そらみつ みそら file  ~To Provide You With Unity~

こころとからだについて、気がついたことを書いていきます。
『』の中の言葉は、見えない世界から伝わってきたものです。

ケアすべきときを知っておく

2023-09-30 10:06:00 | 癒しの手法

日常生活の中で、ここで自分のケアをしないと体調に異変がくる、というサインを僕は自分の中に持っている。

それはちょっとした喉のイガイガだ。


空気が乾燥していたり、少し食べ過ぎたりしたときにやってくるこの感覚を放っておくと、戻れない一線を越えて悩ましい存在になりやすい。

だからこのイガイガを感じたときは、僕は身体の冷えているところがないか確かめ、水分をとり、時間と場所の余裕があれば換氣に取り掛かる。


決してそこで食べ物をとってはいけない。

食べる瞬間に楽を感じることはあるが、本当の楽をもたらさず、症状を悪化させることは間違いない。


換氣に成功してお腹が鳴ったり、一瞬でも入眠すればもう不調は消えている。

後回しにできる作業なら潔くあきらめ、今の自分を整えることに集中すると、中断した分は必ずより良い成果を伴って取り返すことができる。


喉に関しては万人に通じる現象ではないかもしれないけれど、僕は食べすぎるとすぐに薄く痰が絡まる。

食べている最中から起きることなので、その場で食べるのをやめれば胃腸の異変が進むことはない。


日々、自分の身体とよくコミュニケーションをとるようにしていると、そんなサインに気づく。

それらに気づいて扱い方を工夫した結果が、今の僕のありようを作っている。

僕自身の中に、まだ気づいていないサインがたくさんある。

楽しい作業を後にたくさん残しているというわけである。

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「人のために」が起こす小さな変化

2023-09-29 16:42:00 | 癒し

何かしら行き詰まった人には、「人を助けよ」とか「人のために動け」という言葉が多く降りる。

一人で、あるいは家族で考え込んでいても発展がない。

自分一人だったら、身内だけだったら何もスタートしない。


人のために具体的に行動すると、その人から必ず何かが流れてくる。

関係は一方通行ではない。

こちらから送ったものに対し、何らかのエネルギーが返ってきている。

それが明らかな利益や有用な情報でなくても、我々の感覚は鋭敏に受け取っている。

それは自分が生きていると感じさせる、形はなくても確かな土台のようなものかもしれない。


また、人のために動くことで、自分の中の幸せのスイッチが入る。

この幸福感は自分を前向きに捉えさせ、前途ある選択を誘い出す導火線になる。

希望でなくてもいい。

過度な期待は執着になって結局は失望にもつながる。

未知を不安と取らずに、楽しめるものと受け入れられればそれだけいい。

心が軽くなり身体が行動に移りやすくなるからだ。

些細だけれど、効果が大きい気持ちの切り替わりだ。


行き詰まりから抜けるのは、案外小さなことから始まる。

視点を変えて動けばいい。

何ということもなく視野を広げさせるのが、また動きにくくしている自分を動きやすくするのが、人に対して起こす、人が幸せになるような行動だ。


だから、人のために動き続けている人には、八方塞がりは起こらずに、少しずつでも先に向けて流れが続いているものだ。

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それぞれのアプローチ

2023-09-28 14:07:51 | 癒し

霊性を高め光明を得たいのに、自分の特質や環境が邪魔になっていると考えるだろうか。

生い立ちや家族関係がこうだったら、あのときにああならなかったら、などなど。

 

僕は、それら全てがその人の霊性開花に向けての強みなのではないかと考える。

弱みだと思っていることについて、見方がひっくり返れば、それがそのまま気づきになる。

気づくためのツールが自分の弱みなのだから、弱みはありがたいものだということになる。

そう言えるのは、振り返ってからのことにはなるけれど。

 

霊性開花ではなく、幸せに気づくことと置き換えても良い。

 

その上で、自分自身を生きることからだけは外れてはいけない。

知らず知らずのうちに誰かと比較することだけが邪魔だ。

 

そうやって自身から発した光は世の中のどこかを明るく照らすことになるだろう。

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方向を使い分ける

2023-09-27 14:05:00 | 癒しの手法

換氣をする際に、仰向けの基本のポーズから離れて、少し体をよじることで触れるべき部位に気づけることがある。

膝は立てた状態で、腰をどちらか左右にひねれば、骨盤の中の異常は簡単に見つかる。

限界を超えるような無茶をしないという当然の前提のもとだけれど、骨盤内部に何の問題もなければ、自然な方向にどうひねろうと苦痛は生じない。


ちょっと痛いからといって症状名をつけるようなことではない。

でも、こうしてちょっとした異常を気づくたびに正しておくことで、重大な疾患を防ぐのに役立つだろう。


腰を捻った場合の骨盤の痛みを例にとると、同じ場所が右に捻ったときには痛いが、左に捻ったときには痛くないということがある。

捻りながら腹部に手を当てて探せば、ケアすべき箇所が簡単に見つけ出せるだろう。

そこに換氣をかける。

なかなかほぐれない場合には違う方向からトライする意味で、今度は左に捻った状態にしてみる。

その上で、軽く腹に指等を押し込み、緊張する箇所に換氣をかける。

ある程度うまくいってほぐれた場合も、反対側からのアプローチは改善を促進するからすべきだろう。

左右双方を適当に繰り返すのに加え、足を戻し仰向けの状態になって、その部位の様子を探り、ケアすると良い。


結果として、どちらに捻ってもさっきより痛みがなくスムーズになっていることに気づくだろう。

腰の痛みも軽くなっている上、頭のモヤも晴れているはずだ。


なお、右に捻ったとき(左膝が立った状態のとき)左下腹部に痛みが出るようならば、左膝上部の外側も同様にケアすると良い。

右手をその部位にかけ、左膝内側が右膝内側に触れる方向に圧力をかけるのだ。

うまくできれば、左下腹部の緊張をほぐすのを助ける。

身体の中の連関もわかって面白い。

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イエスかノーかでないところ

2023-09-26 14:48:00 | Weblog

昨日書いたように遠隔セッションについて変更を加えるのにあたっては、物事の結果ではなく、経過により注意を払ってもらいたいと言う僕の思いが背景にある。

セッション時間を短く求める気持ちは、短絡的に結果を知りたいという欲求と近接な関係がある場合がある。

そこに違和感を強く持つのだ。


イエスかノーかがものを言う場面はもちろんあるが、それを重視しすぎることへの危惧を僕は抱いている。

結果が簡単にわかればいいと言う効率追求の結果、経過を見ながら柔軟に対応する決断力を失っていないだろうか。

長い目で見ると多くのものを失ってしまう方向だ。


自分が行動する理由は自分で把握してほしい。

なぜその行動が必要なのかを真剣に探ってもらえば、それだけの手応えはあるはずだ。

また、呼ばれた場所はどんなところか、ただ行けば開運すると見切って走るのではなく、その場所の特質を知り、敬意ある訪問をしてほしい。


堅苦しく考えろと言うことでは全くない。

せっかく受けるセッションなのだから、ただ感覚的に受け流さずに、多方面からやってくる情報や知覚をフルに受け取ってほしいと思うのだ。

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遠隔セッションについての変更

2023-09-25 14:04:00 | 個人セッションなど予定

僕のセッションのやり方は、エネルギーを降ろしながら、そしてその人のエネルギーが変わっていくのを確認しながら、その上でその人がどのように行動していくのが適切か、またどのようになることが可能なのかを伝えていくものだ。

ただメッセージを降ろすのではないのを分かっていただきたい。

セッションの始めと後半では、時間の経過とともにエネルギーが変化することにより、伝えることが違ってくるのは、とても自然なことなのだ。

その意味で、セッションを受ける方によっては、短時間のセッションでは僕が提示し得ない範囲が出てくることがある。


そして、短時間で済まさざるを得ないために物足りなさを感じるのは、セッションの施し手である僕の方かもしれない。

短時間のセッションでは相手のエネルギーの通りが中途半端に終わることが考えられる。

もう少し時間をかけることができれば、メッセージのみではなく肉体的にも精神的にも違う結果を提示することができるのにとの思いを持つことになる。


実際にそういうセッションを最近経験した。

ある男性の相談は、お子さんの健康と将来の傾向についてだった。

将来については、父親が期待しているのとは反対に、シビアな話を盛り込まなくてはいけなかった。

楽観的に将来を待ち望むのではなく、能動的な行動の変化が求められることを伝え続けた。

そしてそれは、お子さんのみの責任ではなく、この男性の肩にかかっている部分が大きかった。

単純にイエスかノーかで答えられるものではなく、父が、子が、ある方向への行動の結果、可能性がひらけてくる、という類のものである。


今回この方が希望したのは30分の遠隔セッションだった。

結果への足がかりをしたところで既に30分。

そこで終わることになった。


日頃コミュニケーションをとっている方へのセッションであれば、短時間であってもせめて導入部分から先には進めるだろう。

しかし、長い間やり取りをしていないのであればそうはいかない。


というわけで、今後は、長いことやり取りをしていない方の遠隔セッションは、フルセッションのみとさせてもらおうと思う。

その期間としては半年としておくが、場合によって受け入れる用意はあるので、適宜判断する。

なお、突発的に調子を崩したけれど長い時間が取れないという、体調面でのご相談には、従来通り短い時間でも喜んで対応させていただく。

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安易に一緒にしない

2023-09-24 14:20:08 | Weblog

人は、ひとまず安心するためにいろいろな手段に走る。

 

相手の言葉を少しずらして自分の論理に組み込むのはその一例だ。

知らない者同士が飲み屋で意気投合して、束の間楽しんでさよならするような場合なら、多少食い違う話を共感して進めてもいい。

だが、自分の方向を定めるという人生の大問題においては十二分に注意したい。

 

自分が今までいた場所から少し踏み出してこその前進だ。

耳に優しい言葉ばかりを受け入れていたら発展がないように、耳から入ったものを自分に優しい文に意訳しないようにする。

それは、丁寧に生きることとも言える。

そうする中で、新たな種類のシンクロニシティにも出会っていくことだろう。

 

なんでも一緒くたにしないことにも気をつけたい。

同じだと受け入れることが肝心な場合があるように、違いを細やかに感じ取ってそれを受け入れることが決定的に大事になることもある。

それは優しさでもある。

そして楽しさにもなる。

 

違いを繊細に味わってこそ、自分の世界が深くなり、世の中との関わりが面白くなる。

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都合の良い翻訳

2023-09-23 10:09:11 | Weblog

セッションで、僕の話す内容を相手が理解していないことが、はっきり感じられるときがある。

難しい言葉を使っているからではない。

自分に都合の良い方向に意訳されている場合が主だ。

もしくは、そのアドバイスを含む世界観がすっぽり抜け落ちているように思えることもある。

 

「Aですよ」

と伝えると

「A’ですね」

と返事が来る。

A’は確かにAに近い解釈だ。

だが、Aではない。

その応答の繰り返しで禅問答のようになってしまうが、その人にA’と捉えてもらっては、不充分どころか害になることも考えられる。

 

そうなると、この先いつかの発見のために、そこではAのまま持ち帰り、自分の中でしばらく抱えてもらうのが最善策だ。

 

AをA’と翻訳するのは、A’ならば理解できるからだ。

だが、それではその人は変化への一歩を踏み出せない。

「自分なり」の解釈だったり、自分に都合の良い言い替えだったりするからだ。

このずらした翻訳が実に巧妙に起きる。

これまでの世界に安住し続けようとする、変化への抵抗の現れとも言える。

だからその翻訳が害になるとも言えるのだ。

 

考え続け、工夫し続ければ、AがAだと分かる時が必ずくると思っている。

一旦メッセージとして言葉が発せられれば、見えない世界が動いて、それを理解するのを手助けするような事象に遭ったりもするものだ。

そこからのスタートで充分だ。

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理解の限界

2023-09-22 14:55:44 | Weblog

人が話す言葉を自分の中に取り入れる際にも問題は生じる。

 

人は、相手の言ったことや本で読んだことを、自分の言葉の範囲内で理解する。

相手の世界がどうあろうと、自分の理解している世界が狭ければ、やってきた言葉を狭い中に閉じ込めることになる。

その結果、相手の話が正確に入らないという事態が簡単に生じうる。

 

入らないなら、「入っていない」と自覚するのが適切だ。

そうせずに、「こんな意味だろう」と自分の言葉に翻訳してしまうことが多く、それが問題をややこしくする。

「自分はこう解釈した」ではなく、「こう言われた」「こう言っていた」という認識になる。

 

一生懸命理解しようとする努力であるのはよくわかる。

だが、確信ができないときに「わかっていないのではないか」と疑う態度は大事なのだ。

そのほうが目的地に近くなる。

 

そして、できるなら、自分の世界を広げるべく研鑽を積むことだ。

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文章の理解 4

2023-09-21 15:32:45 | Weblog

ある理系志望の浪人生に、日本語の文章をとにかくしつこく読み、理解があやふやな単語を細かく調べ、いい加減な理解で終えない勉強法を伝授したことがある。

受験に限定された分野だけではなく、日常で目にする文章を全て対象にそうするように伝えた。

半年かそこらの後のことだったが、共通テストの模試の得点が100点程度だったのが、安定して150点取れるまでに上がったという。

感覚でしか解いていなかった国語が、基礎力を鍛えることで武器になる科目になった。

これは昨日書いた「国語の試験におけるテクニック」とは一線を画するものだ。

(ちなみに「テクニック」は確かに国語の成績アップに直結するし、それ以外の場面での日本語読解にも貢献するものではあるので、習得しておくのが好ましい。文章を頭に入れやすくなる。)

 

浪人生はそれほど伸びないと一般的に言われるが、そんな定説は簡単に覆すことができたのである。

単純に、開発されていない伸びしろをどうするかという話であった。

先に書いた主婦の話と同様、真剣さを持てば誰にでも積むことができるのが日本語力なのだ。

 

面白いことに、日本語の力が大幅に増すのと時期を同じくして彼の目に力が宿ったし、話し言葉も曖昧なところがなくなり力強くなった。

人間にとって言葉がいかに大事か、こんなことからも観察できるのである。

 

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