そらみつ みそら file  ~To Provide You With Unity~

こころとからだについて、気がついたことを書いていきます。
『』の中の言葉は、見えない世界から伝わってきたものです。

森と林

2006-03-28 14:11:02 | 癒し
森と林の違いをご存知ですか?

「モリ」は「母理」「茂理」であって自然のままの森林。
だから神の宿るところは「杜(モリ)」になる。

「ハヤシ」は「拝志」であって人口の加わった森林。
「生やす」から来ている。

「母理」という字になるのは昔の人々が自然の木々の集まりがいかに人間にとって大事かということを分かっていたからですね。
自然の営みからうまれた雑多な種類の木たちが母となり命を育んでいく。
自然とともに生きるという人間の感謝の気持がこの字にあらわれていて私はとても好きなのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

LOHASに思う(2)

2006-03-25 18:13:09 | Weblog
「持続可能」というぐらいだからはじめから無理しすぎない、という姿勢もポイントになります。
持続可能というのは禁欲、苦行的な意味合いがないということになります。

無理してまで豪遊、というものの対極としての禁欲・苦行では、過度の贅沢が破綻するのと同様、つぶれていくのがはっきりしています。
新興宗教などの中にそんな流れを見ることがあります。
社会背景が産み出した時代の寵児です。

対抗するものがある、というのは弱いのです。最終的には。
バブルが崩壊すれば禁欲も崩壊する。

「顔を洗って手桶に残った水をただ捨てないで、庭の草木にかけてあげなさい」というのが日本で花開いた禅の教えであり、自然に日本人の心に響くものです。
生きているのはわたしたちだけじゃない、と他の存在が幸せになっていくことを考えつつしていくことは自然に摂理にかなったものになっていきます。

これって当たり前ですよね。
だって人間て他の人が幸せになれば自分も幸せになるようにできているのですから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

LOHAS に思う(1)

2006-03-24 06:34:09 | 癒し
最近LOHAS(ロハス)という言葉がよく聞かれます。
Lifestyles Of Health And Sustainability。
健康的で持続可能な生活。
このアメリカ生まれのコンセプトは、ようするに体にやさしく、環境にも優しくということです。
環境に優しいから持続可能。
古来からの先達の生き方を思い出せばわれわれ日本人には簡単な事です。

企業としてLOHASの活動をしていくには決断に勇気が必要なケースも出てきます。
利益追求を第一に、使えるものは根こそぎ使って、という方が実に簡単だったりする訳ですから。
持続可能、を旗印に上げるためには、どうしても周りの多くの人々の理解が必要になります。
お得意先も、消費者も、一緒に考えていかないと当人たちだけではたちゆかなくなります。
安いから、という理由でぱーっと走ってはそういう企業が活動しにくくなるわけです。

お互いを思いやる気持ちが大事ということです。
だから私は "LOHAS" の前に ”Interactive"(相互に作用する) の ”I" がつけられたらいいと思うのです。
"ILOHAS"・・・生活のイロハ、あたりまえの基本という意味も込めて。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お願い

2006-03-22 21:15:36 | Weblog
この場を借りてお願いいたします。
私がセッションを通じておろしたメッセージを文章に起こした方、できましたらその文章を私にいただけますと大変助かります。

ここのところしていませんが、以前はおろした内容をいただいていたことがありました。

わたしはおろしっぱなしで忘れております。
その中には多くの方と分かち合っていけるものがたくさんある、と最近痛感しています。
私自身も言葉をおろす中で日々勉強させていただいております。

差し支えない部分だけでも結構ですから、ご協力いただけると大変ありがたく思います。
パソコンで文章になさった方はメールにて、また手書きのものをお持ちの方は郵送にていただけたらと思います。

よろしくお願いいたします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

過去生と先祖

2006-03-21 07:29:00 | Weblog
わたしは現在に大きく影響している自分の過去生を伝えられて知っているのですが、先日母方の親戚の法要で福島に行ったとき、先祖がそこに関係ある場所の出自であることを聞かされました。

過去生は自分が生きてきた道そのもの、そして先祖というルーツも自分に直接つながってくる過去からの太いパイプです。
その二つが同じところに回帰することを知って、この世に生きるということの完全さを改めて感じました。

人のセッションをする中で、他の人の人生を通じて見てきたケースでしたが、それでもやはり自分がやはり同じようにして生きてきた事を知ると深い感慨がありますね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

つながりを意識する(2)

2006-03-16 22:46:25 | Weblog
近くの人の痛みを自分のからだで感じる敏感な人は少なくありません。
そしてこれは特別な現象ではありません。
妻がつわりで苦しむときに、夫が同様に具合が悪くなる現象を、ともづわり、と呼びます。

自分で自覚していなくても他の人の感覚や想いはすべての人が感じているものなのです。

人がもつ感覚を共有できるということは、あなたがもった感覚を見えないかたちででも人に伝えることが可能だということです。
これが意乗り、すなわち祈りになります。

人がもつ感覚を共有する、ということを次元を超えて体験することが、見えないいのちからのメッセージを受け取る、ということです。
少しも不思議なことではないのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

つながりを意識する(1)

2006-03-15 17:56:16 | Weblog
わたしたちは一つのいのちとして活動を始めてから長い長いときを経験してきました。
多くの生まれ変わりがあり、ひとつひとつの生をさまざまな感情を味わいながら通過してきたのです。

いのちとしての歴史を私たちは別個に繰り広げてきた一方、ほかのすべてのいのちとともに創り上げてきた現実がありました。
地球としての歩み、歴史もまた、わたしたちがみなで創ってきたいのちの営みでした。

自分以外のいっさいのものと無関係に生きていくことは不可能です。
逆に自分自身の内面に深く入っていくことにより私たちは他の人を知り、また地球を知り、宇宙を知ることができます。

もともとがつながりあっていたものなのですから、心さえ開けば、「他を理解する」ということは不可能ではないのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

許す

2006-03-14 16:57:45 | Weblog
許す、という言葉があります。
多くの場面において、人が癒されていくため、苦痛から解放されていくために必要なことです。
長い宗教の歴史の中で、人が神に「許される」ことは大きなテーマでした。

さて「許される」があれば「許されていない」があるわけです。
「許されていない」とはどういう状態でしょうか。

宇宙では自分がしたことが自分に返ってくるだけです。
「いいことをしたからいい人生を送ることができる」
「悪いことをしたせいで悪いカルマに苦しまなくてはいけない」
というのは「よい」「悪い」を作った人間の言い分であって、ただちに善し悪しを決めることができるわけではない、ということには多くの方々がもう共感されることではないでしょうか。

したことが返ってくる。
非常にシンプルです。

「許されていない」人は「許していない」というだけです。
裁くものが裁かれ、試すものが試され、愛を送るものが愛を送られる、ということです。

自分の中を探さずにほかの人のせいにするとき、自分と宇宙との間に複雑な糸のからまりができていくのでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

痛み

2006-03-11 11:55:34 | Weblog
痛みはいのちがからだを通じて発信する信号、合図です。
痛みはわたしたちが気づいていく必要のあることを伝えています。

多くの人との出会いの中で、その方が本当に必要なことに気づいた瞬間に痛みがすべてからだから離れていく、という現場に数えきれないほど立ち会いました。
おぼろげながら感じていたこと、気づかずにいたことを意識の表層に引っ張りだしたせいで苦しみから解放されるのです。
どんなことであれ、最終的な原因はその本人にあります。

いい、わるいではありません。
苦痛が発生することもプロセスでしかないのです。

問題を正面から見つめ、皮を剥ぐようにして真相に近づく過程で多くのことは解決されていきます。
真相に近づくとはその人が宇宙根源と強く、深く結ばれていく過程のことです。

現象的な問題が解決されても、あなたの中にはまだ何らかの痛みが残っているかもしれません。
そして最後に残されている作業とは、やはり自分自身の内面をみて、認めることにほかなりません。

一度ですべてを認めることは難しい場合もあります。
しかし痛みから離れ、また疑い、そしてふたたび苦痛に対面し、という経験の中で本当に自分に大切なことを体得していくしかありません。

そして最後に残るのは、生かされているというよろこび、感謝なのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする