そらみつ みそら file  ~To Provide You With Unity~

こころとからだについて、気がついたことを書いていきます。
『』の中の言葉は、見えない世界から伝わってきたものです。

節分にあらためて鬼を考える 2

2008-02-15 10:50:51 | 癒し
吉野金峰山寺の節分は、全国各地から追い出された鬼を集めて行われます。
悪を繰り返してきた鬼が、この金峰山寺の祭、祈りで心根の善い者として生まれ変わるのです。
ですから前夜祭に登場する鬼に対しては、
「鬼は外、福は内」
のかけ声がかけられます。
そして、節分当日には鬼の”魔”が祓われ、
「鬼は内、福は内」
となるのです。

こうして年に一回思い起こされる鬼ですが、本来どのような存在だったのでしょうか。
わたしの中で感じられる鬼は、
「人が都合の悪いものとして封印した存在」
です。
人は誰しも、心から切り取ることのできない、影の部分をもっています。
そうした一面に対してどういう形で向き合うか、という命題を突きつけられるものです。

もう一つ、日本の歴史の中で、鬼として扱われてきた人たちがいます。
それは、日本の政治体制に影響力をもち、裏方として大きなはたらきをしてきながら、都合の悪くなった段階で切り捨てられ、葬り去られた存在です。
これから日本の国の力を強くしていくためには、こうして閉ざされてしまったいのちを理解し、晴らし、光の存在として敬っていく必要があるのです。
これは日本だけではなく、世界各地でも同じことが言えます。

わたしたちの心の中の鬼、そして、歴史の中で鬼として封印された存在。
その2つには、はっきりとした違いはあるでしょうか。
わたしたちの心、肉体、そして魂を統合していく必要のある今、鬼に目を向け、その存在を考える事はとても大切です。

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節分にあらためて鬼を考える  1

2008-02-14 09:52:06 | 癒し
もう節分から10日もたってしまいます。
目まぐるしいばかりです。

今年の節分は、吉野で過ごしました。
修験道の本拠地、金峰山寺で節分前夜の2月2日に、友人の小嶋さちほさんの奉納演奏に、観客として参加してきました。

1月初旬に見た夢の話をします。
<わたしはある夜、吉野にいるとわかっているのですが、そこはインドと区別がつきません。
そして、真っ暗な中を、大きな白い玉がたくさん浮遊しています。
それはとても懐かしい光景で、わたしはとても幸せな気持ちでいます。>

夢から覚めて思い返しても、そんな光景を今まで見たことはありません。
それが、この吉野の節分前夜祭で、わたしの目の前に広がったのです。

暗闇と松明の火、舞い落ちてくる雪のほのかな明るさ、そして音が、幻想的な光景をつくり出していました。
それが、まさにわたしが夢で見た景色だったのでした。

なぜそれがインドだったのかは、奉納演奏した小嶋さんから後日いただいた言葉でわかりました。

「蔵王堂の奉納の1曲目は、前回の旅でみそらさんにいわれた<山のうた>なのですが 、もともとはシヴァ神のうただったんです。
そのまま今回の、役行者と蔵王権現のうたになったのですが、 やはり、インドとのつながり、がすごくイメージにでてきていました。
大峰山頂で行者様が祈ったエネルギーは、ラージギルへとんで そこから、蔵王権現があらわれたんですから、蔵王権現は、インドからやはりシヴァ神、と感じています。
なので、みそらさんの夢、なるほど!でした。 」

小嶋さんが曲を創造するときの意識が、わたしにその場所の感覚をもたらしたのでしょうか。
それとも、インドや吉野、そのときのその場所に関係あるいのちが時空を超えてわたしたちを動かしたのでしょうか。

わたしの見た夢は、こんな写真になって現れてきました。








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