3月11日、東日本大震災から5年が経った瞬間は電車での移動中でした。
直前に、一緒に祈ろうというメールも届いており、その瞬間にも意識を合わせることができましたが、何をどのように祈ったらいいのか、ということを考えるようになっていて、頭の中が一本にまとまりませんでした。
亡くなった方へのご冥福の祈りは大事です。
過去への感謝があって、わたしたちは前に進みます。
過去への感謝の祈りはわかりやすいものですが、それは抽象的だからです。
一方これから先子孫に残していく未来への祈りには、どんな思いを込めるべきでしょうか。
今あることへの感謝をただ捧げるという瞑想に近い状態でいることはこれまでしてきたことですが、ただそれだけでいいのでしょうか。
期待することは欲となり、苦をもたらすものだから、ただ起きることを認めるのが究極の姿ということもできますが、それでは具体的な行動に結びつきません。
祈りから一歩先に進んで、実践できる行動目標を持つことはできるのでしょうか。
明確な未来像があれば、日々の行動も具体的になります。
宇宙との関わりの中で、わたしたちだけでは越えられないものがもたらされることも示唆されますが、わたしたちは待つだけでいいのでしょうか。
伝えられたことはその通りしていくとしても、普段の心持ちとしては何を考えていればいいのでしょうか。
そんなことをその時の祈りの中で尋ねていたところ、普段求めるべきは
『持続可能であること』
という答えでした。
「持続可能性」とは、大辞林の定義では
<生物資源(特に森林や水産資源)の長期的に維持可能な利用条件を満たすこと。広義には,自然資源消費や環境汚染が適正に管理され,経済活動や福祉の水準が長期的に維持可能なことをいう。サステイナビリティー。>
となります。
しかし同じ人間でも、その時に何を望むのかは人それぞれに異なります。
明日の生死も確実ではない状況にある人と、それなりに安全が確保されている人とでは、浅いレベルでの思いが違ってくるのは当然のことです。
そのことを思い、「持続可能」をどのように捉えたらいいのかを聞くと、
『arbitrary』
と伝えてきました。
日本語に訳すと「任意」ということになります。
となると普段の行動指針としてわたしたちにも実現できる範囲に入ってきます。
ただ、その前提として、世界に対する認識に間違いがあってはそもそも話になりません。
「知ること」、「理解すること」がまずわたしたちに課せられた義務と思うべきでしょう。
無関心とともに、わたしたちは無知も排斥していくよう、不断に努力しなければいけないと思います。