そらみつ みそら file  ~To Provide You With Unity~

こころとからだについて、気がついたことを書いていきます。
『』の中の言葉は、見えない世界から伝わってきたものです。

幸せを伝える

2006-05-30 07:45:51 | 癒し
人それぞれ、抱える問題もさまざまです。
自分から見たら道筋が見えていて、
「こう進んだら難しいことではないのに」
と思うようなことでも、立場が変わるとそうはいかないことが多くあります。

それをストレートに伝えた方がよい場合もありますが、いつもそうとは限りません。
本人が意固地になってよけいに物事が進まなくなることもあります。
さらにそのせいで自分もトラブルに巻き込まれることがあるわけです。
必要のない波をかぶることになります。

『いずれ、片がつく問題だけど、そこにあなたが絡む必要はないよ。
笑い、笑顔でこたえてあげればよい。
それがその人への力直しになる。
言わないで、笑っていなさい。』

一番よい道は、その人自身で気づくことです。
そして、本人の気づきを「待つ」ことを通して、私たちも学ぶことがたくさんあるのです。

幸せは言葉で伝わるだけのものではありません。
幸せは見えないところで常に流れています。
むしろその方が大きいのです。
だから幸せな人の近くにいれば、誰でも幸せになるのです。
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生まれつきのもの?

2006-05-21 06:04:50 | 癒し
「小さいときから見えたり聞こえたりしたのですか?」
と、よく尋ねられます。
これに対してわたしは、
「特にそう言うことはありませんでした。」
と常に答えます。

ただ、「見える、聞こえる」の世界に突然入ったわけではありません。
むしろ、「見える、聞こえる」と実感するようになってからは、
「そう実感する前も同じ世界にいたのだ」
と思えるようになったというのが、わたしにとって正しい言い方なのです。

必ずしも映像として、また言葉として受け取るのではなくても、いつもまわりに存在していたものだったのだと今では感じます。

自分が気づく前からも常に愛され、見守られてきていたのです。
「見える、聞こえる」の世界に入った時期というのは、わたしにとっては、そこに気づかせていただいた時期だと言えるのです。
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直前の苦しみ

2006-05-20 05:55:51 | 癒し
いよいよ新しい門出、というときになっていろいろな思いがこみ上げてきました。
美しいものばかりではありません。
どちらかというと苦しいもの。
自分が醜く見えてしかたがない、とこの50歳代の女性は電話口でおっしゃいます。
こんな自分がこんな仕事をしていいのか、できるのか。
何を見てもそんな思いに苦しめられたようです。

きっと自分を見つめ直す最後の時期だったのでしょう。
体に関しても、人生のこれまでに苦しめられてきた問題がこの時期にすべてまた顔を出しました。
まわりとしてはただ祈り、待つしかありません。

それがあるとき、
「もう終わったんだ」
と、ふと思ったんだそうです。
そして、
「もう終わった」
という感覚がことあるごとに心にやってきたそうです。

全部が全部、自分をかたどってきた大事な人生でした。
解放された今、
「いろいろあったけど、考えてみたらいつもなんだか、楽しかった」
と笑っておっしゃっていました。

解放が大きければ大きいほど、その直前の苦しみも深いのかもしれません。
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感情を抑えない

2006-05-18 06:11:29 | 癒し
人間の中身は「善いもの」ばかりではありません。
ふたをしたくなるような出来事、歴史もわたしたちを形づくっています。
そこにばかり目がいくとき、どうしても自分を人と比べがちになります。

自分の中に存在するもの。
それを無理に押さえつけようとすれば、必ずねじれた形でどこかで顔をもたげてきます。
怒りにしても憎しみにしてもねたみにしても、
「それがそこにある」
と認めること。
認めてあげるとその感情は安心します。
人だって、その人そのものとして認められると安心するのですから。

そして「それがある」ということに素直でありさえすれば、必要がなくなったときにその感情は離れていきます。
そしてそんな感情が離れていくのは、
「自分はこれでいいんだ」
という安心感を得た時だと思います。
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事故がもたらしたもの

2006-05-17 06:16:49 | 癒し
半年ほど前にセッションをした30歳代の女性です。
この女性はその1ヶ月前に自転車に乗っているときに側面から自動車にぶつかられました。
幸い大事には至らなかったものの、腰痛などの痛みに苦しめられることになってしまいました。

知人からの紹介でセッションを受けてくださいました。
もともと敏感で、勘の鋭い女性だと言うことでした。
実はこの女性はその知人から何度もセッションを勧められていましたが、そのころは自分では受ける気にならなかったと言います。
それが交通事故の後遺症に苦しむようになって、セッションを希望したということでした。

事故に遭ってから、ものの考え方に変化が出てきたそうです。
自分の人生、役割について新しい見方をするようになったのです。
セッションをしてみると次から次へとメッセージがおりてきました。
そのメッセージの内容は、交通事故に遭ってから漠然と自分で思うようになったことばかりでした。
つまり、セッションを受けることはその新しい価値観の裏付けになったのです。

自分の中で少しずつ見えてきたことがはっきり形をもって出てきたので、とてもすっきりしたとおっしゃってくださいました。
そして何よりの心配材料だった体の痛みがすっかりなくなったのです。
事故以来自分の子供を抱くことが出来なかったのが、何の問題もなく抱き上げて、歩き回ることが出来たのです。
これには子供も大喜びでした。
わたしも目の前でそのよろこびに立ち会いました。

子供も一緒に事故に遭っていて、あごの骨がどうくっつくか、という心配もあったのですが、先日電話をいただいたおり、その問題もなさそうだとのことでした。
そして体の痛みはセッション以降一度も出てきていないとおっしゃっていました。

この交通事故がもたらしたものは何だったのでしょうか。
1ヶ月の間苦しい思いをしたのは確かです。
しかしその苦しい思いの中で自分の人生を確認し、新たに歩み始めることができたのです。
そしてその後肉体的な苦しみからも解放されたのです。

事故などなければないに越したことはありません。
しかし彼女の場合人生の方向づけを行うことが出来たのはこの事故のおかげだったのではないでしょうか。
それこそが、この事故を通じて、見えないいのちが問いかけたことだったと思うのです。
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表の仕事と裏でのはたらき

2006-05-13 04:28:17 | 癒し
体格のしっかりしたスポーツ選手です。
日本にはプロ制度のないスポーツですが、社会人の名門でプレーを始めました。
しかし彼はまだまだ大きくならなければいけません。
何年か後に海外でプレーしたいという目標があるのです。

彼の最大の長所は、優しい、家族思いだというところです。
ハードな世界ですが、長い間選手生活を続ける、さらに後に後進を指導する立場に立てるために、彼の家族思いの性格が、さらに才覚を呼び起こすということでした。
人に慕われる性格が彼の夢の実現のバックアップをしているのです。

さて、セッション途中で彼の「裏のはたらき」が伝えられてきました。
それは、
『日本のために、外国、外国人との調整、橋渡しをする』
ということでした。
『日本の国をまもりたい』
『今の(国の)金慢体質を何とかしたい』
『世の中、箸にも棒にもかからないやつが増えている』
と、さまざまな声が聞こえてきました。

いのちとして大きな役割を果たすために今この時期に立ち上がり、自分の特徴を生かした職業を選び、厳しくも楽しく生きていく。
魂の選択の素晴らしさに驚かされました。
そして根本の、愛にあふれた熱い人間性にふれられたことにわたしは感動させられたのです。
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怖い話が好きな人

2006-05-12 06:38:58 | 癒し
おそれが体にもたらすものは何でしょう。
こわい、という感情をもつと胸がつまります。
胸がつまった状態はさまざまな病気を呼び込むことになります。
将来や健康を心配しすぎることもおそれにつながっていきます。
いやしはおそれから離れていくこと、このままで大丈夫、という確信が生まれることだと思います。

先日呼吸困難に苦しんでいた女性には、
『テレビの影響が大きい』
と伝られました。
本人に聞くと、テレビというよりもスプラッター映画を昔から好んでいて、今はDVDを家でよく楽しんでいるとのことでした。
「(コレクションを)捨てた方がいいでしょうか?」
と聞かれましたが、一度伝えられたこと、自分でも明確になったことですから、わざわざ逆らっていては、また苦しむ結果が目に見えています。

同じようなことを伝えられた方がつい最近もいました。
『おそれから体が悪くなっている。
魔の方に、引きつけられやすい。
怖い話を昔から好んでいる』
こんなメッセージが下りたのですが、本人は体中が痛んでいるのに気づいていませんでした。

怖い話を見聞きすることがいけないか、という判断はわたしには出来ません。
しかしそこが原因で何かことが起きていないか。
自分で振り返ってみて当てはまるようなら、関わり方を考えた方がいいと思います。
怖い話に囲まれて過ごし、自分の体がむしばまれていくなんて、それ自体がぞっとする話です。
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「したい」「したくない」

2006-05-11 21:13:46 | Weblog
「したい」「したくない」
このように考えずに間髪入れずに行動が出来るのであれば世界は非常に簡単、シンプルなものです。
しかし実際のところ、私たちの行動は好き嫌いによって大きく影響されています。

一方、何か行動を起こすのに
「しなくてはいけない」「してはいけない」
という考え方にしばられることがあります。

宇宙の意思に沿った行動をとりたい。
そう思ったときどちらの道にすすんだらいいか、どうしても慎重になる時があります。
しかし、
「しなくてはいけない」「してはいけない」
となると行動が非常に窮屈になります。
常に「どうなのか」と問わなくてはならなくなります。

こんなときには、あらためて自分が「したい」のか、「したくない」のか、自然に感じてみたらよいのではないでしょうか?
宇宙はわたしたちに窮屈な思いをさせようとしていません。
常によろこび、楽しむ方向を与えてくれています。
あなたの個性、クセも使って宇宙は進んでいます。
そこまで神経質にならなくてもいいのです。
必要な時にはあらためてサインが見つかるでしょう。

それより、大きな意味で自分を方向付ける祈りをもつことです。
全てのいのちがしあわせに。
宇宙の意思と調和するその思いが根底にあるならば、私たちの行動に間違いはあり得なくなるのです。
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知らせてくる

2006-05-05 05:59:02 | 癒し
先祖や近縁の人の亡くなった霊が頼ってくることがあります。
光になるになりきれない、という苦しい状況のときには人間の手を借りるしか方法がありません。
そこでまず近い人を頼ってくるのです。

先祖に障りがある、霊障などというとこわくなりますが、先祖も近くのいのちもすべて共に生きるもの、みなで一緒に繁栄していく方法が必ずあるのです。
光になるになりきれない、とは愛が足りない状況にあるわけですから、その霊に感謝をすることがまず第一です。
基本はいっしょですが、そのいのちごとに望むことは違う場合が当然あります。

自分の人生の成就は自分の力だけでなりたつことではありません。
普段から自分に近いいのちの存在を意識し、自分が地上に生まれる流れをつくっていただいたことを感謝していることです。
それが身近なコミュニケーションとなります。
自分がそこに関われるというのは非常にありがたいことだと思うのです。
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「いる」と実感すれば

2006-05-02 22:52:38 | 癒し
10年以上も前からいろいろな方に、家に龍神がいると言われてきた母親と娘が来ました。
龍神がいるのだから家にそのための社をつくりなさいと言われていたそうです。
しかし社を作るなんて、と重荷に感じ、神棚に札を飾ってはいましたが、それも最近になって神社の方にしかるべきやり方で処分してもらっていました。

さて、今回この親子がやってきたのは、結婚式を控えた娘が1ヶ月前から突然息が苦しくてたまらなくなったからでした。
母親が電話をかけてきて是非会いに来たいということでしたが、わたしは娘さんとまず話したいと伝えていました。
しかし娘さんは電話をすることもできず、あまりの苦しさに耐えきれず、病院に入院してしまいました。
それをその夜伝えてきた母親に、龍神さんがさわっているから翌朝早い時間に洗った米3合を庭全体にまくように伝えました。

翌日昼頃連絡が来ました。
電話をした後娘さんはだいぶ楽になり、退院して会いに来ることが出来そうだ、とのことでした。
原因不明の息苦しさが電話で楽になったことと、今になってまた龍神、と聞いたことに母親は驚いていました。

龍神は、当たり前のことですが、何も悪さをしたいのではありません。
人を苦しめようなんて少しも思ってはいません。
しかしある人を導いていきたいのに、その人が全く知らんぷりでは伝え方も変わってくるというものです。
娘さんのものの考え方や生活の中での改善した方が良いクセなどが事細かに伝えられました。
なにも心配することもなく、苦しい方向に引っ張られる必要など何もないのです。
しかも小さい頃からお経が聞こえてきたり、と敏感な方です。
守られ導かれていることを意識せずに生活していてすむものではありません。

母親にしても同じです。
龍神が「いる」ならば「いる」なりに接する必要があります。
それは何も大きな社をつくって祀ることではありません。
家の中にいる存在として、敬意をもって、感謝をもって生活することなのです。
「いる」という実感がないこと。
今まではそれで説明が出来ましたが、ここまではっきりしてくると「いる」という事実を否定のしようがありません。
龍の像を飾って大事にすればよいとのことでしたからそう伝えました。

家の中に人が「いたら」、コミュニケーションなしに生活することはできません。
見えないいのちでもそれは同じことなのです。
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