そらみつ みそら file  ~To Provide You With Unity~

こころとからだについて、気がついたことを書いていきます。
『』の中の言葉は、見えない世界から伝わってきたものです。

歴史とともにある言霊

2006-08-27 11:30:53 | 癒し
お経や真言、祝詞など、古くから伝えられてきた祈りの言霊が日本にはたくさんあります。
様々な形でヒーリングやカウンセリングの活動をしている人に、わたしは多く出会います。
そう言う人の中には
「今までお経など唱えていなかった」
という人も少なくありませんが、日常や、人と接する仕事の場でそれらの言霊を使ってみていただくと、その効力に驚かれます。
「人と会っても疲れなくなった」
とか、
「浄化が早くなった」
などとおっしゃいます。
見えない世界の仕事に従事していて感覚は鋭敏な方々ですから、その強さもはっきり感じられるようです。

古来の宗教と結びつくそれらの言葉ですが、わたしは宗教に関係していませんし、特定の宗教をすすめる気も全くありません。
しかし宗教を通じて、多くの言葉、光が下ろされてきたことは事実です。

日本には、国の歴史、そしてその中に生きてきた人々のたましいの歴史があります。
その歴史に密接に関連した言霊が、いきいきと働くのは当然なのでしょう。

海外ではやはり、その地域に根付いた神、言霊が強く働きます。
これもわたしが経験してきたことです。
まったく海外での経験がないのに海外の神、言霊が出てくる人もいます。
いのちの歴史というのは十人十色ですね。
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二重に呼ばれる

2006-08-26 12:06:28 | 癒し
いろいろな場所から呼ばれます。
見えないいのちが、ある特定の場所に行き、どういう具合に動いてほしいのかを伝えてきます。
その度にその場所がどういうところなのか、わくわくします。

「意識は形を持たず、場所に拘束されるものではないのだからどこにも行く必要はない、そこにいればいいのだ」
とおっしゃる方もいました。
しかし、わたしたちは肉体をもって生きているのです。
その肉体を使って、ある場所を体感し、じかに感謝を伝えることは意味のないことだとは思いません。
土地との出会いを楽しんでいるからこそ、わたしは様々な場所の見えないいのちから、声をかけてもらえるのかもしれません。

おもしろいのは、見えないところからのメッセージと、実際に人から「会いたい」と呼んでいただくのが、連動してくることです。
同じ場所から、見えないいのちと人とが、同時に呼んで下さるのです。
自分に伝わってくる言葉の確かさを感じますし、その時期にその方にお会いすることの意味がわかります。
そして、お会いする方もそんな形の出会いを喜んで下さるのが、とても嬉しいことです。
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「同じ」と「違う」

2006-08-24 20:03:17 | 癒し
人はひとりひとりがみな違います。
すべてが全く同じ世界など意味がありません。
人に自分と同じ意識を植え付けようとすることは、争いを引き起こします。
その気持が元になった戦争が地球上からなくなりません。

他の人が違うことを認め、それを楽しむことがをみなが出来るようになればこの世界は平和になっていくはずです。
地球規模ではなく、地域等の小さな社会の規模で見ても、物事の解決、幸せのために大事な考え方になります。

一方、「自分は違う」と強調してしまうことは、結局幸せな方向に導いてはくれません。
「悟る」という言葉は「差取る」であり、自分とまわりとの間に「差がなくなる」状態を表すものです。
自分がまわりと一つである、同根であるという意識に目覚めることが「悟り」です。
元々一つのものだと知っているからこそ、違うということを楽しめるのです。

自分と他との間の垣根を取り外すことは、生きる中での大きなテーマと言えます。
セッションに来て下さる多くの方が、そこに意識をもって来て下さっていると思います。
まわりから、世界から分離しようとしていくと必ずどこかで行き詰まりをつくります。

自分と他との「違い」をつくることで、比較の準備がつくられます。
すなわち自分を優位と見るか、他を優位と見るかという比較です。
人を見下ろすにしても、卑屈に人を見上げるにしても、そこにいる限りは本当の幸せにたどり着くことはありません。

分離ではなく、統合へ。
一言で言うと簡単ですが、世の中の全ての事柄をこの観点から見ると、問題の根源が明らかになるように思います。
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語りかけてくる存在

2006-08-22 10:17:48 | 癒し
セッションの中でわたしを通して語りかけて来るのは誰なのか、また普段わたしにメッセージを下ろしてくる存在は誰なのか。
よく聞かれる質問ですが、それはそのときそのときで違っているような気がします。
その存在が名乗ってくることも当然あります。
セッションを受けている方の心がそのまま言葉となって出て来ることもあります。
誰なのか、ちゃんと私の方で聞けばいいのかもしれませんが、私はあまりそれは問わないのです。

全てのいのちが意思を持っていて、わたしたちに語りかける言葉を持っています。
セッション中に出て来るのは、誰であれその方を守っている存在なのでしょう。
ごく身近なところでその方を応援している心強い存在の場合もあるし、全体を見通す大きないのちが地球、宇宙の調和発展のために壮大なメッセージをおろしてくることもあります。

元はと言えばセッションを受けている方も、その存在も一つなのです。
そして、その方の中にたまっている言葉を取り出したから体にも変化が訪れるのです。
また、いつまでもセッションでの言葉をずっと気にしている必要はありません。
それはその瞬間に必要で出てきたものです。

言葉はその方と常に共にあるものですから、時間の経過とともに変化していきます。
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間で伝える

2006-08-19 19:59:36 | 癒し
見えない力は深く強く働きます。
距離を超えて働きます。
人が幸せに生きてほしいという想いがどのように働くか、先日あったことを書きたいと思います。

セッションを受けるつもりでいて下さったAさんは、都合によりどうしても来ることが出来なくなりました。
Aさんをご紹介して下さった友人のBさんが、ご自分のセッションの中でAさんのことを話題にしてきました。
プライベートなことですから深くは立ち入っていないのですが、Aさんに対するいくつかの導きの言葉が出てきました。
その中の一つは、
『隣の県にある大仏に行ってくるように』
ということでした。

セッション中、自然な流れで会話が進み、お互いに思ったのは、いつかAさんにお会いするご縁をいただけたらいいな、ということでした。

5日ほどたって、Bさんからメールがありました。
Aさんが早速大仏のところに今向かっているので、もし連絡があったら必要なことを伝えてあげてほしいという内容でした。
大仏のことを聞いたその翌日に動くというAさんのフットワークの軽さに、私も嬉しくなりました。
Aさんからはその後、タイミングよく電話で話すことが出来ました。

見えない力が動いていることを教えてくれたのは、一通目のメールの直後に来たBさんからのもう一通のメールでした。
Aさんは家族の中での自分の位置について悩むところがあったそうなのですが、突然不思議なくらい考え方が軽くなって、自然に皆に対して優しく行動できるようになったそうなのです。
その様子は、ご家族が驚くほどだったと言います。
そして、そのようにAさんの心がほどけたのは、Bさんがセッションを受けてAさんのことを話した日からだったそうです。

見えない力ははっきりと働きます。
Bさんの想いが確実に、Aさんに導きの言葉と光を運んだのだと思います。
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痛みに感謝する

2006-08-17 07:32:51 | 癒し
昨日は、痛みが消えていくことに感謝する、ということにふれました。
しかしもっとシンプルな、根本的なところに感謝の対象があります。
それは痛みそのものです。

痛みは必ず何かの気づきをもたらしています。
痛みを通じてわたしたちは今必要なことを学ぶことが出来るのです。
だからこそ、痛みそのものに感謝するというのが根本的な治癒に結びつきます。

痛みは、言い方を変えれば、その時点であなたを守ってくれているエネルギーと言えます。
身近なところにいるそのエネルギーに、敬意を表せるか忌み嫌うかで、わたしたちが受け取るものはずいぶん違ってきます。
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感謝をつくる

2006-08-16 07:57:27 | 癒し
感謝をつくり出すのにも上手な方と下手な方がいます。
同じ状況にいるときに感謝できるか、それとも別の考え方をするか、ということです。

痛みのある人のからだに接しているうちに、痛みは和らいできます。
完全に痛みがなくなったわけではないけれど、だいぶ変わってきただろうなというときに
「(痛みの状態は)どうですか、楽になりましたか?」
と聞いた場合の反応は2通りあります。

「かなり楽になりました」
という答えと、
「まだ痛いです」
という答えです。

どちらも痛みの減り方は同じぐらいなのだと思います。
でも自分でどのように考えるか、感謝の方向にもっていくかどうかで、その後の痛みは変わってきます。
「楽になった」と思っていれば、「もっと楽へ」の方向に導かれます。
常にネガティブに考える人は、痛みについて聞いたときの答え方も常にネガティブになってしまいます。

簡単に軽くなる人は、根本的に考え方が軽いのです。

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正体を分かってあげる

2006-08-14 08:53:08 | 癒し
体が重くなったり気分がすぐれなくなったりする理由はいろいろあります。
最終的には自分に理由があるわけですが、ときには見えないいのちが私たちの肉体を頼ってくることがあります。

先日お会いした30歳代の女性の左の肩甲骨の内側から鋭い痛みを感じました。
そこをさわっていると、
『ご主人の会社から重いものが来ている』
と聞こえてきました。

彼女にそれを話すと、当然のことではありますが、彼女はご主人の心配をなさっていました。
でも、ご主人が危険、ということは出てこないのです。

痛みをまだ感じつつ続けていると、
『会社で、陰で自殺した人がいる』
という声が聞こえてきました。

それを伝えようとした瞬間に彼女が思い出してくれました。
運送関連の会社で働いているご主人の同僚がつい数日前、事故で亡くなったということでした。
そしてそれを聞いてから祈るとその痛みはすっと抜けていったのです。
彼女の体もすっきりしました。

いのちは必ず光になる方向を求めています。
見えないところでそのつながりを求めています。
その亡くなった方の魂が、会社の同僚の奥さんを通じて、光になる手段を求めてやってきたのだということが分かりました。
その方の死は事故によるものであり、自殺ではありませんでした。
ただ、その死は自分で求めていた方向なのだな、と思いました。

痛みは、自分が何者であるかを知ってほしがっています。
「理解」が一番の安らぎになるのは、どんないのちでも同じなのでしょう。
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欠けているもの

2006-08-12 08:06:05 | 癒し
体の不安もなくなり、何が悪いわけではないのに、物事がうまくいかない。
家族のためを思ってやっているのに、その思いは届かないし、結局自分が家族に強くあたってしまう。

こんなとき、何があれば
「これでよい」
という満足感を得られるのでしょうか。

相談してきてくださったこの男性は、目の前に「家を建てる」という大きいながらも実現可能な目標をもっているのに、現実的な問題が目の前に立ちはだかり、今一歩のところで動けずにいます。

この方の相談を聞いていて聞こえてくるのは、
「(彼は)幸せ」
という言葉でした。

今ある家族、そして取り巻く現実をよく見て、何が欠けているのか。
それは家でもお金でもありません。
それは必要なときに与えられていくものです。

今の生活に不満を探し出し、それを解消していこうとするのは自分の人生を達成する原動力にもなりえます。
でもわたしがこの人に接して感じたのは、逆に
「今ある幸せを感謝する必要」
でした。

毎日動いて動き続けて、という生活では、今自分がどんなところにいるのかが分からなくなります。
どんなに忙しくても、静かに感謝する時間を少しでもいいですから作るのです。
ただただありがとう、というところまで降りていかれるようにすると、家族のちょっとした反応に動じなくなります。
何より自分がよろこびの中にいるからです。
そして家族まで、そのよろこびの輪の中に入れてしまうのです。

必要なものは、必要なときに与えられます。
この男性にとっての家は、「プレゼント」として決まっているものです。
「家が来るから安定する」
のではなく、
「安定したところに家が来る」
のです。

必要なときにいただくもの、としか言いようがありません。
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「かむながら」は越えられない

2006-08-10 07:30:43 | 癒し
『「かむながら」は越えられない』
ある方のセッション中に入ってきた言葉です。

宇宙とつながり、またつながっていることを意識して、人のため社会のために動くようになると不思議なことが自分を取り巻くようになります。
本当は奇跡というものは何もなく、すべて宇宙の法則の中で動いていることですから、その人を通じて宇宙の意思が体現されているだけであり、不思議なことが起きているわけではないのです。

とは言え私たちが生かされるそのことが「有り難い」つまり「簡単に行われていることではない」と、一期一会に感謝することが、いのちのドラマをつくり出していきます。

困っている人に手を差し伸べてあげるときに、祈ることでその方の状況は改善します。
他のいのちが幸せに生きることを祈るのは、人としての大事な役割です。
しかし、生きていくのはその人なのですから、それ以上手の出しようがないことがあります。
ゆだねるしかない、というときです。
社会の出来事についても同じことが言えます。

「かむながら」とは「神の意志そのままに」という意味です。
どんな祈りであれ、最終的にはここにたどり着くことになります。
私たち人間の感覚、感情では、宇宙全体がどう動くか、ということまで視野に入れることはなかなかできません。
そこで「かむながら」「宇宙の意思そのままに」というゆだね方しか出来なくなります。

そこを越えて一個人の状況を変えることはできないということです。
それを無理にしようとするのならば、どこかで曲がった形で返ってきます。

必要なことは必要なときにしか動かないのです。
それも深く認識して、ただただゆだねることを実践していきたいものです。
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