鼎子堂(Teishi-Do)

三毛猫堂 改め 『鼎子堂(ていしどう)』に屋号を変更しました。

初夏の休日③~ヘビーな昼食

2012-05-21 22:55:34 | Weblog
5月21日 朝から、テレビは、ずっと金冠日蝕のLIVE中継。もっと、劇的に暗くなるのかと思ったのに、日蝕だって言われなければ多分、解らないくらい・・・。
夏の太陽が、朝からギラギラ。

3年前の日蝕の後、私は、地獄を見たんだよね~~~。
今年は、どうでしょう???


(土曜日からの続き)
銀座4丁目に出る予定だったのだけれど、外堀通りを歩き、結局、有楽町―新橋間を歩いてしまった。
風も気持よい初夏だし、いろいろと過去の記憶などを呼びおこしながら、それでも結構、楽しかった。
予約時間や開演時間や帰宅時間を気にせず、きままに、フラフラ歩くもの楽しいもの。

さて、新橋まできて、ここは、もうお馴染みなので、銀座8丁目方面へと足を向ける。
劇場のある博品館ビル。
・・・8丁目にも、海外のブランド・ショップが展開していた。
旧き?良き?銀座も、外来種のブラック・バスが繁殖している日本の河川化しているようだね?

時刻既に14時を回る。

松屋の8階・レストラン街にある『銀座アスター』で、十二野菜と茸の豆乳温麺(←このメニューが好きなのですが、この1年半の間、口腔内の都合で、食べることができなかった訳で・・・)を、食すつもりで、来たのだけれど、外気温30℃くらいだろうし、この暑さで、熱い麺類はなぁ・・・と思う。

暫く、迷って、ランチBセットに決める。
メインは、エビチリソース煮(・・・なのだけれども、ランチ価格なので、油通しした茄子で増量してある)。
トマトケチャップ味ではなくて、ホールトマトを使ってあるようで、ちょっとイタリアンな感じ。
刻みにんにくもたっぷりでも、今日は、このまま帰るから、ニンニク大量でもいいもんね・・・。
四川飯店のエビチリは、トマトケチャップ味に鶏卵が入ったものだったように思うけれど、アスターのは、やや軽めな感じかなぁ~~~???
・・・しかし、決して、軽くないことは、このあと判明する。
14時半に食したランチは、当日の23時過ぎるまで、全くお腹が空かないくらい重かったのだ。
もともと、平日は、形のある昼食は、取らないせいもある・・・。
割とヘビーな昼食となった。

翌日・・・。
1時間の徒歩と、帰りの電車で、爆睡したせいか・・・?
首回りと肩が痛いし、身体全体が筋肉痛化してしまった。

それでも・・・結構、楽しい都内散歩になった。

初夏の休日②~寄り道・銀座 みゆき館 

2012-05-20 22:53:02 | Weblog
薄曇り。


昨日は、都下へ出て、もう1件、寄るところがあった。
劇場枠で予約した演劇チケットの引取りに、日比谷へ。
宝塚劇場の隣のビルが、いつのまにか消失(再開発?)していて、皇居のお堀端の緑が見える。
この方が見通しがいいよなぁ・・・。それにつけても、案外、狭いもんだな・・・と思う。

JR有楽町駅で下車して、帝国ホテル前の劇場まで、歩く。

そして、そのあと、銀座に出て、久しぶりに中華ランチでも食べようかと帝国ホテル前の道を銀座方面へ。泰明小学校前を通過(・・・ここが、あの?朝丘雪路さんが人力車で乳母と通った学校だったかね?)。

みゆき通りに到る。
みゆき族発祥?の地。(みゆき族に関しては、多分、この頃、まだ生まれていなかったと思うので、実態は不明。夕暮れ族なら、多少?知ってるんだけどね???)

この周辺は、懐かしい。
もうなくなってしまったのだけれど、ここには、むかし『みゆき館』という小劇場スペースがあって、ここで、加藤健一さんの『審判:バリー・コリンズ・著』をみたのだった。
1970年代の終り頃だったと思う。

『有罪ですか?ええ・・・。有罪に決まってますとも・・・。』

脱出不可能な地下牢(・・・だったと思いますが、そのへん曖昧・・・)に閉じ込められた数人の士官が、死んでいく仲間達を食べて、生き続け、最後のひとりとなったヴァホフ大尉が、終戦後、奇跡的に救出されたものの、裁判にかけられる。その被告役を、2時間にわたり、ひとりの俳優が演じていく。

舞台にセットが、被告席ひとつだけ・・・。
近くの大劇場では、華やかなレヴューや芝居をしている同じ銀座にあって・・・100席に満たないこの地下の小劇場では、人道に触れる物語がひとりの役者によって、展開している・・・なんつぅ・・・ギャップだろうか・・・。

この『審判』。
加藤健一さんの他に江守徹さんが演じていらしたけれど、その後、再演の噂は、聞いていない。
加藤さんは、その後、『麻雀放浪記』で、女を質にいれても博打を打つ女衒の鬼気迫る演技は、秀逸だったし、松坂慶子さん主演の『椿姫』の相手役(アルマン・・・なんだろうなぁ・・・原作では。映画じゃ、タクシーの運転手さんだったけど・・・)を演じていらした。


そんなことを回想していうちに、私は、中央通りと外堀通りを間違えたとも知らず・・・何故か、新橋方面へ向かって歩いているのであった・・・。

初夏の休日~薔薇の一日

2012-05-19 23:01:54 | Weblog
夏日?真夏日…微妙な初夏の土曜日。


本日は、都下へ通院。
診療予約時間が、午前11:00という早めの設定だったので、平日通り起きて、8時半に自宅を出る。このところ、通院というと天候が荒れたり、ダイヤが乱れたりだったけれど、今日は順調。
今日も診療予約時間を大幅?(30分)を過ぎても、一向に順番が回ってこない。
朝食にコンビニ・ローソンで購入した『エッグ・タルト(値段の割には、なかなか優しい味がするので、気に入っている:125円也)』とお茶だけだったので、途中、ウィダー・イン・ゼリーを購入して、病院入りする前に飲んどいてヨカッタ。

今から1年半程前の話だが、現在やっている歯科治療は、完了するまでに、2年半くらいは、かかる・・・とヨソの病院で言われたので、都内まで通いきれるかどうか二の足を踏んでいたのだけれど、現在通院中の病院に相談したら、1年前後で終わるということだったので、こちらの病院にお世話になった。
(当時:今はどうなのか・・・?)大学病院でしか行っていない治療だったらしく、民間では、あまり例がなかったから、この病院は、いつも混んでいる(・・・らしい?)。
そんなこんなで、待ち時間が長かろうが、都合のよい日に予約が取れなかろうが、狭かろうが、とにかく、治してもらえるだけでもありがたいのだった(健保がきかないもんで、オール自費だけど・・・)。

さて、今日も予約時間45分を超えそうなあたりで、時間は、既にお昼に近い。
終わったのは、13時少し前。

診療後、いつもの駅ビルの花屋さんで、ランプリング・ローズの鉢植えを見つけた。
高さゆうに2メートルを超え、花は小振りで、可憐な花形。
白と薄紅色が可愛らしく、
(これ、買って宅急便で、自宅まで送ってもらおうかな・・・)と思案する。
こんなに可愛い花なれば、毎日眺めて楽しかろう。私の部屋のベランダに蔓を這わせてみるのも一興か・・・。

でもな・・・。
ベランダに蔓を這わせてたら、蒲団が干せないし、シーツなどの大物の干場もないし・・・。
何より、薔薇には、ムシがつく・・・。アブラムシびっしりの恐怖がよみがえる。
(値段的には、妥協できるのだが・・・因みにあの大きさで、6,500円は破格だろうし・・・)
などと、5分くらい悩んだすえ、今日はやめておこう・・・と思った。
それで、自宅についても、やっぱり、あの薔薇欲しかったんだよね~~~なとど、思ってたりして。

朝起きて、薔薇に向かって
『グーテン・モルゲン!オーディン!(勝手に名づける:でも、オーディンというよりは、マリカちゃんとか、コハルちゃんだとか、コユキちゃん的な風情だったよな・・・どんな風情だ?)!』
珈琲なんか飲みながら・・・そんな朝を妄想するも・・・。
そんな時間ない・・・多分、ない・・・絶対ない・・・。

今日は、自宅から、駅に至るまで、そして、車窓・・・と薔薇をたくさん見た日だった。

5月は、薔薇の季節。

美青年のいる文学史⑤~天上の二人②『天守物語』

2012-05-18 22:52:44 | Weblog
晴れ時々曇り時々雷雨。
初夏の空は、忙しい・・・。


姫路城天守に住む魔性・富姫と若き鷹匠・姫川図書之助。
この二人(←ひとりは、人ならぬ妖かしの魔物なんですが)も、日本文学史上、外すことのできない恋人達でしょうか。
藩主の鷹をそらした罪で、上ることを禁じられている天守で、魔と邂逅する。
魔は、美しい女主・天守夫人・富姫。

どちらか・・・と言えば、これは、『富姫』メインの物語ですが、美しき魔に、魅入られた姫川図書之助の美しさも、また超ド級。泉鏡花ならではの幻想美。

魔と人との恋。
この恋は、成就するようです。

魔と人との恋を、成就させるには、どちらかが、それまでの境遇を捨てなければならない。
・・・となれば、捨てやすい方が、相手に合わせるのが自然なのでしょうか。
この物語の場合、主は、『富姫』なので、従である『姫川図書之助』が、人間界を捨て去ることになるのだけれど、藩主の鷹をそらした罪で、上意討ちの身なのだろうから、図書之助には、この先、人の世界で生きることは、不可能になっております。
それなんで、双方に都合がいいのは、彼自身が、魔となり、富姫側の世界に堕ちることで、一応の決着がつきそうです。
・・・まずは、めでたし・・・?

魔に堕ちた富姫側にも事情があったりで、人の身であったときは、戦乱に紛れ、城を落ち行く身であり、敵方に囚われるのを厭い、自害したといういきさつもあるようです。
魔に堕ちてからの富姫は、やっと恋する相手に巡りあいますが・・・。

『夫人:千歳百歳(ちとせももとせ)にただ一度、たった一度の恋だのに・・・。』

泉鏡花ならではの美しい幻想の世界が、五重の天守の上で、繰り広げられます。
清く、美しく、あでやかな・・・。
この世のものとは、思えない(架空の世界ですが・・・)、それを演出するのは、神の身ならぬ、人なのです・・・。

魔界の女を演じるのは、生身の女(優)には、ちょっと難関か・・・と思います。
歌舞伎、演劇では、スタンダードな演目ですが、女優さんが、あまり演じられていないのは、『魔』の美しさというのは、男性らしかぬ男性の女性的な?(相変わらず意味不明ですが)美によるものかと思われます。

・・・なので、『富姫』も、一応、美青年と置き換えても・・・いいか・・・とイージーな結論です。
この世には、存在しない『女性』ってことで・・・。

坂東玉三郎さんのためにあるような演目で、若手俳優の何人かが、姫川図書之助役にトライしましたが、決定打が出ず・・・(玉三郎の富姫に、役を食われてしまうので、男優としては、面白味のない役どころなのかもしれません)。

現・片岡仁左衛門さんの姫川図書之助が、絶品だっただけに・・・。
後続がでないのは、惜しいところです・・・。


美青年のいる文学史④~天上の二人『春の雪』

2012-05-17 22:51:39 | Weblog
曇りがち。


文学と映像の中の美青年ということで、何度か、駄文を書いてみたのですが、どうも、上手くかけず仕舞いで、そのまま4回目に突入です。
第一回目の『春の雪(三島由紀夫・著)』で、70年代あたりの日本文学史上、一番の美青年ということで、取り上げてみました。
主人公『松枝清顕』は、たぶん、今でも、日本文学史上一番の美青年というその座を明け渡すことが、難しいと思えるほどです。

終戦(太平洋戦争)後、日本では、『貴族』という種族が滅亡したことになっております。
それは、文学史上にも反映されていて、『斜陽(太宰治・著)』の中でも、本物の貴族の『おかあさま』の死によって、壊滅したことになっているようです。

その絶滅した本物の貴族の系譜は、『春の雪』の主人公・松枝清顕の恋人である『綾倉聡子』に、見出すことができます。
同じ貴族(華族)でも、松枝清顕と綾倉聡子では、貴族の格が違うのです。
(この華族制度については、明治維新後、もともとの宮廷につかえる貴族と、成り上がりで、明治政府から爵位を買った市民などがいる訳で、爵位については、いろいろあるようです)

つまり、松枝清顕ひとりでは、支えきれない美の頂点を、綾倉聡子というパートナーが、あればこそ、美しく花ひらいているのだと言えるのかもしません。

旧い習慣の『御立待ち』。
水鏡に月を映して、子供の将来を占う・・・。
月は、水鏡の中で、陰りをおびます。
松枝清顕には、不吉な影がつきまといます。

随所にこういう伏線が張られており、主人公は、きっと・・・絶対、幸福には、なれないんだろうなぁ・・・と思い込ませるあたり・・・そして、それが、儚い美しさに繋がっていく。

そして、もうひとつ、この物語を、美しく彩っている綾倉聡子ですが・・・。
とにかく、謎めいた女性(←この場合、『にょしょう』と読んでいただけると幸いです)で、この物語の最終巻である『天人五衰』でも、謎の言葉を残して、ケムに巻き、その美を永遠の『物語』そのものにしてしまうのです。
(周囲を騒がす、大本であるにも関わらず)いつの間にか、実害?の及ばない第三者になってしまうあたり・・・やはり、謎の女性です。
そして、純粋な貴族の系譜である『綾倉聡子』は、出家するだけで、世俗の煩わしい出来事から
いとも簡単に乖離できてしまうのです。

清顕は、死に、聡子は、奈良のお寺の門跡に就任し・・・。

日本文学史上、まさに、天上の美しさ(地上の汚辱は、一切無効になる世界)で、君臨するのが、松枝清顕と綾倉聡子なのです。


彼岸の花

2012-05-16 22:58:25 | Weblog
初夏復活の夏日。


彼岸・・・あの世。
此岸・・・この世。

あの世とこの世の間には、三途の川がある・・・らしい。

春秋のお彼岸のシーズンでもないのに、いきなり・・・すみませんね~~~。

先週末・・・胃痛と腰痛と大腿部の筋肉痛?に悩まされて、終日、横臥していた訳ですが、横になっていると、どうも眠気に誘われて、昼夜区別なく、眠くなったら眠っておりました。

・・・で。
夢を見た訳です。
(夢のハナシかよ・・・。どうせまた、訳の分からん、ぐちゃぐちゃな夢だろうよ・・・)
まさに、その通りなのですが・・・。

自宅裏の雑木林の地面に、蛍光ピンクな芝桜。
陽光もあたらんのに、まあ、随分、咲いていること・・・、咲いていること・・・。

ずっと奥へいくと、誰も知らない白い花のさいているところあって(もちろん夢の中での設定です)
私は、其処へ行くのが楽しみだったのですが・・・。
何故か、雑木林の木々の向こうに、紫色の菖蒲か杜若か・・・凛とした佇まいで、群生しているでは、ありませんか・・・それも、2メートル?くらいの高さで。
(この高さでは、活けられないかなぁ・・・)
只、その美しさは、感動を超えて、何やら薄気味悪い・・・というか、多少の恐怖というか、気持ちの悪い美しさになっていくようでした。菖蒲としては、結構、巨大だし。

そして、誰も知らないはずのその場所に、道ができておりました。
ずっと山林で、人の踏み入れる場所ではなかったのに・・・。
突然、山林が開けて、あたりは、見通しの良い高台になっておりまして、でも、誰もいない。
何やら、ここは、現世ではないな・・・と思いました。
むやみに荒涼として、白っぽい光に満ち溢れていて、枯れた山村のイメージ。

ここは、彼岸なのか・・・。
でも、川を渡ってないからなぁ・・・

現世でもなく、彼岸でもない・・・とすれば、単なる心象風景なのでしょうが・・・。


『苦みのあるドイツの薬草のような女』

2012-05-15 22:59:12 | Weblog
終日、雨・・・。寒い一日。


今日のタイトルは、森茉莉さんのエッセイで、妹さんを形容したセンテンス。
幼い頃、活発だった妹の杏奴(アンヌ)さんを綴った文章の中で、お転婆な杏奴さんが、成長して、『苦みのあるドイツの薬草のような女』になった・・・というもの。

白くて、清潔で、やや翳りのあるような・・・そんな感じがする。

森鴎外の長女として生まれた茉莉さんは、筋金?入りのお嬢様。世間知らずというか、普通の庶民とは、一線を画す風変りな性格で、何度か離婚を経験し、50歳を過ぎて、文筆家となり、妹の杏奴さんは、活発に遊ぶ女の子だったけれど、長じてから、画家の小堀四郎氏と結婚して、『聖家族』とよばれるような家庭を築き上げた・・・という記述を読んだことがある。

一度、私も、言われてみたい形容詞である・・・苦みのあるドイツの薬草のような女・・・。

このセンテンスを読んで、想像したのが、鈴蘭だった。
甘く優しくさわやかな香りで、ちょっと青みのある苦さもあるかなと思うし、あんなに可憐に咲く鈴蘭も、根(花、茎、葉を含む)には、毒を持つという。
みかけから想像もつかない『毒』をもつ。

ドイツの薬草ということであれば、鈴蘭ではないのだけれど・・・。

或いは、エーデルワイスのような形状で、に、高山に咲く花で、薄荷のような香りのする・・・などと、勝手に想像してみる。

病気を癒すドイツの薬草・・・。
それは、ほろ苦く、清潔で、凛とした風情。

いま、おりしも、鈴蘭の季節。
美しく可憐で、儚く・・・そして、苦みのある毒をもつ・・・美しい花・・・。


『会社』は、やっぱり、有難い???

2012-05-14 22:54:09 | Weblog
夏日。風爽やか・・・。


先週は、4月度決算後半で、出だしは、好調だったですが、一変して、後半が、キツかった・・・。
何故か、胃が痛い・・・。
そのうえ、『合同社員ミーティング』(←工場勤務者全員・・・ワタシ、正社員じゃないのに・・・ブツブツ・・・文句を言いながら)という集会が、合併したお隣の工場敷地内でありまして、往復25分歩き、30分、炎天下?の中、立ちっぱなしで、腰痛を引きおこしてしまって、更に、『創立記念集会』(集会が好きな会社だね?)で、こちらも立ちっ放し・・・痛い腰を、ナデナデしながら、耐えがたきを耐え?状態。

そんなこんなで、週末にかけては、寝返りを打つと痛みが走り、おまけに、大型連休中の不規則な生活が祟り、夜中全く眠れない・・・という悪循環な日々でした(自業自得ダネ!)

胃痛・腰痛を引き起こした原因のひとつとして、連休中の不規則な生活だったということは、間違いないし、ダラダラ寝暮らしていたせいでもありますから・・・。

私、会社員じゃなかったら、とうに、破滅していたかも・・・?
そういう意味では、『会社』は、有難い存在でもあります。
イヤが、オウでも、6時30分には、起きなければならないし、そうするためには、夜、きちんと寝なくては、いけないし・・・。
仕事は、つまらないけれど、忍耐力を養うって点では、会社は、最高の場所かもしれません。
しかも、おカネまでいただける・・・あの仕事で・・・(それなのに、うつ病になるヤツの気がしれませんね~~~)。
そりゃ、管理職なんかは、給料の多い分、責任も重いし、大変だろうけれど、一般のしかも間接職員なんかは、ラクだよね~~~あの会社。福利厚生とかは、いいみたいだし、年休16日は、絶対休まなければいけないから、まっ・・・休み放題・・・。

読書し放題や録画見放題・・・夜中、起きて、朝眠る・・・って生活は、楽しいですけどね。
いかんせん、身体には、良くないようです。

頼みにしていた整体師さんも、治療場を閉めてしまっていて、いまは、営業していないし・・・ホント、自分の身体は、自分で守れってことでしょうね~~~。

土曜・日曜と身体を横にしていたら、ようやく回復の兆しも見えてきて、ちょっと安堵感・・・。

やっぱ、身体の不調は、こたえます・・・。

美青年のいる文学史③

2012-05-13 23:00:05 | Weblog
晴れ時々くもり。午後から少し翳るような感じ。


日本文学って範疇で、美青年を、ヴィジュアル化(映像化)する・・・或いは、ヴィジュアル化できる土壌が、乏しい・・・などと、一昨日のブログで書きました。
その理由として、男性の存在基準が、『強くタフネスである』と概念があるからだろうと思う・・・という一応の結論は、出しておきました。
多分、全く、的を得てないと思いますがね・・・。

欧州の映画などでは、文学とヴィジュアルが結合して、芸術的な作品がいくつも挙げられるのがその理由なんですが・・・。
例えば、ルキノ・ヴィスコンティの『ベニスに死す(T・マン:著)』・・・ビヨルン・アンドレセンという美少年?なしでは、この作品を映像化するのは、ちょっと無理だろうし、イギリス映画の『モーリス(E・M・フォースター:著)』に至っては、ジェイムズ・ウィルビー、ヒュー・グラントがいなければ、成り立たないんじゃなかろうか・・・と思えるほど、俳優の美しさを堪能できる作品です。

つらつらと、そんなこんなと考えているうちに、大御所を忘れていることに気が付きました。
『シェイクスピア以降、ベケット以前』
演劇・・・であります。

シェイクスピアの作品で、『ロミオとジュリエット』のロミオ役、そして、『ハムレット』のハムレット役・・・二つの主役ですが、この二つの主役の間には、暗くて深い・・・川がある・・・(いきなり、黒の舟歌でごめんなさい!)と言われております。

ロミオ役者でおわるか、ハムレット役者になれるか・・・と言ったところでしょうか?
日本じゃ、ソレ程、意識されているのかどうか?わかりませんが、ある程度、技量がなくても、ソコソコの若さと美しさがあれば、演じられるロミオ役と、割と難関な?ハムレット役ってことでしょうかね?
『ロミオとジュリエット』は、コレも最近だったと思うけれど、若手の二人の役者が、わりと大劇場で、公演していたけれど、やっぱ・・・なんだかなぁ・・・???で、食指が動かず、チケット料金もハンパではく高かったので、観てないからなんとも言えませんが・・・。

イタリア映画で、過去に、『君は薔薇より美しい』オリビア・ハッセー(モト?布施明夫人)とこれまた最高に美しいヴィジュアルのレナード・ホワイティング・・・という固定イメージがあったからでしょうねぇ・・・。
一方の『ハムレット』。悩めるオトコの典型ですが・・・?
浅学な私には、相応しいと思える役者を、まだ知りません・・・。
ハムレットが美形かどうかは、別にして、・・・やはり、欧州の方が、美青年の存在意義度は、高いような気がしますが・・・???
ど~~~なんだろう???


美青年のいる文学史②

2012-05-12 22:52:25 | Weblog
晴れ時々くもり・・・或いは、くもり時々晴れ・・・風爽やかな土曜日。


古いところでは、紫式部描くところの光源氏、井原西鶴の好色一代男・・・あと、思いつきませんが・・・。

美青年の描写力では、横溝正史さんの猟奇的な美貌は、外せないよなぁ・・・。
高木彬光さんもわりと端正な美貌の青年像を描く。
ちょっと、昔風な美青年像ですが・・・。

やっぱ・・・京極夏彦さんの『榎木津礼二郎』でしょうかね~~~???
もと海軍中尉(・・・階級違うかなぁ?)。
海軍さんのあの白い軍服は、痩せた方では、あまり似合わなさそうなんですが。
ちょっと胸板の厚い長身な男性が似合いそうだ。
それに、反して、ドイツ第三帝国SSの軍服は、長身、細身、金髪、碧眼でないと合わない。
(話は、それるけれど、『サムライ』を歌っていたときのジュリーこと沢田研二さんは、ナチス退廃のした妖しい美だった・・・と久世光彦さんは、おっしゃっていたという記事を読んだけれど、正にその通りかと・・・)。

ミステリーには、美青年は、なくてはならないアイテムのひとつのようです。
大体、妖しく、美しくないとミステリーとしての魅力も半減するといもの・・・なのかどうか???

やっぱり、美青年の描き方は、作家の性差にもよるところも大きい。

女性作家は、女性の美しさを万全に表現できないのかもしれないし、男性作家は、男性の美しさを完全筆致できないのかもしれない・・・なとど、勝手な事を言っております。

美しいオトコを、描かせるのであれば、それは、女性作家の手によるもののほうが、文学的にも、価値?(何の価値だろう?)が高いのかもしれません。

綺麗な男性は、実社会において、生活力は、あまりなさそうです(多分、普通の仕事なんかできる訳ないし)。
モデルか、俳優か・・・或いは、サービス業くらいしか需要はないから。
私が、有閑階級(今時、あるんだろうか?そういう階級)で、一生働かずに、贅沢し放題であるなら、綺麗な男性を侍られておくのも楽しいかな・・・と思ったりしますね。
アクセサリーか、ペットです感覚で・・・?
ステータスを誇示するために、連れ歩く。あまりの美貌に、周囲が振り返る。コナ?かける?

・・・美青年は、文学か、ヴィジュアルの中にか、生存できない存在なのかもしれません・・・(嘘です)。

そして、老残なもと美青年ほど、哀れなモノは、なさそうなのです。