鼎子堂(Teishi-Do)

三毛猫堂 改め 『鼎子堂(ていしどう)』に屋号を変更しました。

『近代能楽集・葵の上:三島由紀夫・著』

2012-08-07 22:52:47 | Weblog
暑い一日。夕方、一瞬の激しい雷雨。


『生霊』の代名詞と言えば、源氏物語の『六条御息所』さんなのでしょう・・・と、昨日のブログを書いていて、そういえば、三島由紀夫の近代能楽集にあったよなぁ・・・などと思いだして・・・。

この物語は、六条康子(六条御息所)の生霊と若林光(光源氏)が、病で、うなされる葵(葵上)の病室で、邂逅してしまうのですが・・・。

そして、この物語の書かれた時点での文明の利器・電話が、六条康子本人と彼女の生霊と完全に乖離していることを証明しています。

生霊と対峙している若林光と電話に出ている六条康子・・・3人というか二人と生霊が、完全に分離されて、生霊は、もう別の人格(霊格?)のようのです。

ここで、気の毒なのは、生霊に取りつかれた若林葵です。
タイトルになっているにも関わらず、彼女は、病院のベッドの上で、苦しみ、絶命するだけです。

生霊を生み出したのは、六条康子の嫉妬・恨み・妬みというネガティヴな感情ですが、生霊にまで、発展させたのは、若林光そのひとだと言えるかもしれません。
しかし、若林光にも言い分は、あります。

康子さんの愛は、重いんだよ!・・・みたいな。

生霊は、個人が、その存在を認めて、受け入れない限り、受け入れ先がない感情が、記号化して、彷徨い歩きやがて、呪いとなって、対象を取り殺す・・・内田樹先生の御明察通りです。

さて、若林葵は、六条康子の生霊に取り殺されますが、殺人罪は、成立しません。
六条康子のアリバイは、若林光との電話で成立していますし、生霊に殺人罪は、問えません(だって、六条康子本人とは、完全に乖離しているんですから)。

・・・それでも・・・。
六条康子が、若林葵の死の真相を知り、自分の生霊の存在を若林光から知らされたとき、この誇り高き女性は、どうなるのでしょうか?現世の法律では、無罪でも、六条康子自身の生んだ『生霊』に、今度は、自分が苦しめられるのでしょうか?
生霊に出会ってしまった、若林光は、もう二度と六条康子を愛することは、できないのではないかと思います。それは、六条康子にとっては、死ぬほどの苦しみでしょう。

物語は、若林葵が死んだ時点で終わっています。