みどりの一期一会

当事者の経験と情報を伝えあい、あらたなコミュニケーションツールとしての可能性を模索したい。

戦争は「魅力的」か?~上野千鶴子/わたしの平和論(月刊オルタ)

2006-12-24 14:14:26 | ジェンダー/上野千鶴子
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ぽかぽかとあたたかい日曜日。
まどぎわには、花たちが日向ぼっこ。
外に目をやると、秋明菊の綿毛が風に舞っている。
 


読書会の前日、上野さんから最近書かれた作品(字)が届いた。
難解な論文もあったけど(笑)、「戦争は『魅力的』か?」という、
こころにジンと響くエッセイのコピーが入っていた。
わたしは、上野さんが一人称で語ることばが好きだ。

ちょうど、『生き延びるための思想』の本と関連だったので、
コピーを配って、読書会のテーマに加えた。

転載の許可を得て、全文を紹介します。
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わたしの平和論10(最終回)
(月刊オルタ 2006年12月号)


 戦争は「魅力的」か?
               上野千鶴子


 中井久夫さんといえば、すぐれた臨床家にして精緻な精神病理学者だが、かれの近著『樹をみつめて』(みすず書房、2006年)が、「戦争と平和論」であることを、そのタイトルだけからではすぐに知ることはできない。近年書きためた エッセイのコレクションである本書のなかには、他の章とくらべて異例に長文の「戦争と平和についての観察」が載っている。わたしはまっ先にこの章を読み始め、むなぐるしい思いで読み終わるまで書物を置くことができなかった。

  「戦争反対」はなぜ敗北するのか
 編集部から次のような依頼を受けたとき、わたしの念頭にまっ先にうかんだのは、中井さんのこの文章である。そしてそれを紹介するためだけにでも、依頼を引き受けようと思った。というのも、その文章には、わたしが「平和」について長いあいだ心にかかりながら、抑圧してきた問いへの答が、おそろしい真実を以て与えられていたからである。
 編集者からの依頼書にはこうあった。
 「戦後日本で当然の価値とされたきた『平和』という概念も、もはや安泰なものではなく、大きな揺らぎの中にあるように思います。」
 編集者は「いわゆる『平和=反戦』という通念から いったん離れ」る ことをわたしに要求していた。そしてその問いを愚直に受け止めたわたしは、「平和はほんとうによいものか?」という問いに、向き合うことになった。
 中井さんは「人類はなぜ戦争するのか、なぜ平和は永続しないのか。・・・・どうして戦争反対はむずかしく、毎度敗北感を以て終わることが多いのか」と問いを立て、それらの問いにまともに答える時間も能力もないが、「小学6年で太平洋戦争の敗戦を迎えた私には、戦争の現実を知る者として未熟な考えを『観察』として提出せずにおれない気持ちがある」という。
 「戦争を知る者が引退するか世を去った時に次の戦争が始まる例が少なくない」
 2005年に書かれたこの文章には、新たな「戦争の世紀」になりかねない21世紀を迎えた老年の中井さん自身の衝迫の思いがある。事実、はしり書きのように人類の戦争と平和についてのめいっぱいの「観察」をつめこんだこの文章は、その密度で読む者を圧倒する。人類はなぜ戦争をするのか? 平和はなぜ永続しないのか?・・・・なぜなら、戦争の方が平和より「魅力的だから」。この答は、おそろしすぎる。もちろん、こんな直截な表現を中井さんが使っているわけではない。だが、かれの戦争の記述を読みながら、そうか、そうだったのか、やっぱり、と思わないわけにいかない。だれもがうすうすと感じていたことを、彼は容赦ない真実として明かしてしまう。
 中井さんの言葉を引こう。
 戦争の論理は単純明快である。人間の奥深い生命感覚に訴える。誇りであり、万能感であり、覚悟である。戦争は躁的祝祭的な高揚感をもたらす。戦時下で人々は(表面的には)道徳的になり、社会は改善されたかにみえる。戦争が要求する苦痛、欠乏、不平等すら倫理性を帯びる。  これに対して、平和とは、自己中心、弛緩、空虚、目的喪失、私利私欲むきだし、犯罪と不道徳の横行する時代である。平和の時代は戦争に比べて大事件に乏しく、人生に個人の生命を越えた(みせかけの)意義づけも、「生き甲斐」も与えない。平和は「退屈」である。
 なるほどこうやって比べてみれば、戦争の方が平和よりも100倍も「魅力的」に見えるだろう。個人の生命を越えた高貴な価値のために、死を賭して戦う戦士たちは崇高でうつくしい。これに反対する者は、臆病者、卑怯者と呼ばれる。
 中井さんは、これらの価値が「見かけ」のものにすぎないことを見抜いている。実際には戦時下には、平時よりももっとあくどい搾取や横領、残虐や迫害が横行するが、それらは都合よく隠される。そしてほんとうの酸鼻は、ただ死者にとってのみ経験される。「死人に口なし」とばかりに。

   日常を生き延びる思想
 60年前の話しではない。戦争と平和のこの対比は、靖国を賛美し、教育基本法を改悪し、「美しい国」をつくろうとしている者が、何を望んでいるのかを示してくれる。高い倫理性、個人を越えた公共的価値への献身、同胞への惜しみない愛、連帯と結束、緊張と高揚感・・・・への自己陶酔には、抗しがたい魅惑があることだろう。小林よしのりのまんがは、この自己陶酔をうまく表現している。
 こう書いているだけで、わるい酒が全身に回るように、冷や汗がにじんでくる。なぜならこういうヒロイズムやナルシシズムに抵抗できる者はほとんどいないからだ。そしてどんな反戦の表象にも、この種のヒロイズムやナルシシズムは(ただその方向が違うだけで)反復されているからだ。たとえばドイツ反戦映画の『白バラ』を思い起こせばよい。主人公はつねに凛々しく毅然として、自分を越えた崇高な価値のために自己犠牲をいとわない。反戦映画としてつくられた特攻隊ものや戦艦大和の表象すら、ムダな死に赴く若い兵士たちをヒロイックに描く誘惑からは免れないのだ。
 戦争は過程で、平和は状態だ、と中井さんは言う。過程はいったん動き出したらとまらなくなるが、状態は不断のエネルギーで維持しつづけなければならない。それもあらゆる退屈と不平、不満、空虚に耐えながら。こんな作業がおもしろいはずがない。だから、戦争のプロパガンダの前に、平和運動はしばしば敗北してきた。
 戦争は魅力的だ。実際の戦争はともかく、少なくとも戦争へとわたしたちを動員することばには、抗しがたい魅力がある。そのことは知っておいたほうがよい。平和を維持するには、その悪魔のささやきのような魅力の罠にはまらないように、耳ざとく臆病なウサギのように、ずるがしこいキツネのように、いつでも敏捷に警戒を怠ってはならない。中井さんはそう、わたしたちに警告を発しているように思える。もう自分の持ち時間が少なくなったと自覚して。
 「平和とは日常茶飯事が続くことである」
 中井さんの 卓見である。「過ぎ去って初めて珠玉のごときものとなる」のが、平和だ、とかれは言う。幸福と同じように、その最中にいて、平和の価値を知ることは少ない。
 今日のように明日もつづく。そのことがどんなに貴重なことか。そう思わなければ女は子を産み育てられないし、老人は安心して歳をとれない。フェミニズムとはかっこよくも、おおしくもない、日常を生き延びる思想だ。ヒロイズムはフェミニズムの敵、とわたしはずっと思ってきた。中井さんに教えられて、それを再確認した思いである。

●うえのちづこ/社会学者。1948年富山県生まれ。京都大学大学院博士課程終
了。現在、東京大学大学院人文社会系研究科教授。著書に『セクシャル・ギャルの大研究』、『女という快楽』、『家父長制と資本制』、『近代家族の成立と終焉』、『生き延びるための思想-ジェンダー平等の罠』ほか多数。
(月刊オルタ 2006年12月号)
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この日、読書会のテーマは
「第一部三 対抗暴力とジェンダー」だった。

少しずつていねいに読んできた手ごわい本だけど、
「4『テロにも戦争にも反対』?」の一部は、
上野さんのことば自体を音読した。
説明はいらないと思うので、引用して紹介したい。

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 ・・・・・朝日新聞に書いた「非力の思想」という小文は、共感だけでなく、さまざまな人たちから、反発を招いた。とりわけ反植民地主義の立場に立つ人々から、民族解放闘争や反日闘争も認めないというのか、と指弾を受けた。多くの人々は、抑圧的な暴力に無抵抗のままでいることに歯がみしたい思いをかかえていることだろう。対抗暴力は、しばしば圧倒的な権力の非対称のもとで行使される。毅然として死地におもむくテロリストは英雄にみえるし、そのようなヒロイズムに対するロマン化と自己陶酔を避けることはむずかしい。自分の世俗的な卑小さと比べても、死を決したヒロイズムは賞賛の的となる。「いのちより大切な価値がある」という命題は、その実、卑小な人々がみずからの卑小さを居丈高に隠蔽するイデオロギーとして機能することさえある。「新しい歴史教科書を作る会」の人々を、思い浮かべるとよい。
 わたしは「いのちより大切な価値がある」と思っていない。フェミニズムは「生き延びるための思想」だと思っているし、そのフェミニズムにとって、ヒロイズムはマイナスにこそなれ、利益になることなどない、と思っている。そして対抗暴力(「やられたらやりかえせ」)は、しょせんはその暴力を行使する能力のある者にしか許されない手段だと思う。対抗してみるといい、無力なあなたは、徹底的な反撃にあい、前よりももっと手ひどく叩きのめされるだろう。暴力の圧倒的な非対称とは、このような状況をいう。
 わたしの念頭にあるのは、女だけではなく、子ども、高齢者、障害者など無力な人々である。無力な人々の集団から、女だけ、いちぬけする選択肢もないわけではない。だが、無力な者とよりそったときに、「女の問題」と言われるもののほとんどが噴出したのだ。依存的な存在を切り捨てることさえできれば、「女の問題」と言われるものの大半は雲散霧消するだろう。無力な者とともにあること自体は、「女らしさ」や「母性」など、女の「特性」とは無関係なことなど、ジェンダー理論のなかではとっくに検証されているが、歴史がつくりあげた「女」の位置からジェンダーという問題群が発生しているとしたら、その歴史の文脈をなかったことにするより、そのなかで鍛えられた思想を、女の思想として提示したい。それがフェミニズムではなかったか。・・・・・
(『生き延びるための思想-ジェンダー平等の罠』P85~86より)
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中井さんの『樹を見つめて』を読みたくて
読書会の帰りに、さがして買った。

 

裏表紙に、こんなことばがある。

 <私はふと思った。植物界を人間と動物の活動の背景のようにみなしてきた.植物に注目するのは,もっぱら人間のために役立つかどうかという点からである.中米のサトイモは人間のホルモンであるステロイドのまとまった量を作ってくれるとか.石油代わりの液を出す植物に注目して「地球にやさしい」とか.・・・医学は,人体を宇宙の中心に据えた天動説生物学になりがちである.天動説は根強い.医学だけではない.自国からしかものが見えない傾向が強まっているのも天動説復帰であろう.時には植物の側から眺めると見えてくるものがある.そういう眼を持ちたいものである.何の役に立つかという天動説的観点から離れ,役に立たないどころか悪臭を放つ実を降らせるフクギの,いわば存在自体を肯定して,福をもたらすとするのが沖縄の心ばえである.おそらく無用にみえるものの存在を肯定すること自体が福をもたらすのであろう.>(樹を見つめて)
 
無力な子ども時代を「生き延びた」わたし自身、
中井さんの本(訳書も)を読み、
救われたという思いがある。


  『心的外傷と回復』(ジュディス・L・ハーマン/1999)、
『解離~若年期における病理と治療 』(フランク・W・パトナム/2001)、
『PTSDの医療人類学』(アラン・ヤング/2001)、
『徴候・記憶・外傷』(中井久夫/2004)(いずれもみすず書房)


わたしも、「いのちより大切な価値がある」と思っていない。


  


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4 コメント

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有難うございました。 (他袖草)
2006-12-25 10:46:18
みどりさん、いよいよ今年も終わりますね。気になるコメントに引かれ漸く久しぶりでプログを開きました。心に響く上野さんの文章にこれまで霞がかっていた何かが少し判ったような気がしました。早速関連図書を図書館にリクエストしてみます。しっかりと自分なりに読み込んで見たいと思います。いつも大切な情報を有難うございます。
どうか来年も宜しくお願いいたします。

追伸、プログを印刷したいとき文章の後半が切れてしまい、知らせたい情報として使えないのがとても残念です。何とかならないでしょうか?
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戦争は「魅力的」なんだ! (吉田直美)
2006-12-25 23:08:49
上野千鶴子さんの文章に、もっと深く考えたいヒントが詰まっているように思いました。目的が明確にあり、それに向けて自制し統制していく「快感」。自己犠牲を含め「ここまでもやれた」という「陶酔感」。
私が、いまはまっているランニングの世界に山ほどあります。それが、戦争の「魅力」なんですね。
 今、授業で戦争を6年で扱っています。戦争がなぜ無くならないのか、子供と一緒に答えを模索していましたが、ヒントが見えました。ありがとう。
返信する
Unknown (みどり)
2006-12-27 21:04:51
★他袖草さん
上野さんの文章もいいけど、本もいいですよ。ぜひお読みください。

>プログを印刷したいとき文章の後半が切れてしまい、知らせたい情報として使えないのがとても残念です。

本文をコピーしてワードに貼り付けた上で、印刷するなり送信するなりされては、いかがですか?
本文をコピーすると、画像は消えますが文章はとれます。ただし、著作権にご注意ください。

★吉田直美さん
読書会、おもしろかったですよ。

>私が、いまはまっているランニングの世界に山ほどあります。それが、戦争の「魅力」なんですね。
「頑張る」とか、ランニングハイみたいな「極限状態の陶酔感」とか要注意かな。闘争が好きという「嗜癖」もあるかもしれませんね。

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「退屈な戦争」と「刺激的な平和」 (九郎政宗)
2006-12-28 02:34:49
たしかユングが言ってたんですけどね。戦争なんかしなくても人間は(論理で)戦うことに熱中できる・・・みたいなことを。要するに「顔まっかにして議論してればいいじゃん」という話。実際に戦争しなくても。

それに実際の戦争はけっこう退屈らしいですよ。
うまく相手を見つけて戦闘にはいれたらいいけれど、下手したら索敵だけで毎日がおわっちゃう。滝沢秀峰の戦記マンガを読んでいると、「空母から偵察に出たはいいが、母艦の位置を見失って、そのまま燃料が尽きて墜落死」みたいな話がけっこうあります。
陸軍も同様で、毎日毎日行軍に偵察にメシの調達。それでいて死ぬときは一瞬。
みなが思ってるほど戦争は華やかじゃないようで。

たぶん「平和」な状態で、うまく楽しみを見つけられないでいる人間が、「やったこともない戦争」にあこがれちゃうんじゃないかな。
ヒマな状態で楽しみを見つけられることが、文化とか教養とかいうもんじゃないかと思うのですが。
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