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朝鮮の分裂:右も左も正しくない

2013-08-16 | ラジオ
8月15日、北朝鮮と韓国は最も重要な国民の祝日を迎える。植民地支配解放記念日だ。多くの朝鮮人にとってこの日は、解放と同時に国家分裂という複雑な日だ。
分裂の責任の大半は列強同士の対立にあるが、朝鮮人の右派と左派の内部対立にも、また責任があったのだ。そのどちらも妥協を望まなかったからだ。最近明らかになった秘密文書によれば、妥協への意志は極めて表面的であったことが分かる。
現在、1945年から1953年にかけて起こった悲劇の全責任を、北朝鮮に押し付けようとする傾向がある。このような傾向の背景には第一に、韓国が選択したモデルが、かなり効果的であったこと、第二に、ソビエトおよび東欧の文献が明らかになった今、北朝鮮指導部が武力による祖国統一を目指して、先に攻撃を始めたことが明らかになったことがある。

しかし、そのような見方は今になってのものだ。当時、40年代末、韓国モデルの魅力は未だに未知数だった。経済的に見れば北が南を圧倒していた。政治的自由においても、それほど違いはなかった。
確かに韓国における検閲は、北よりも緩やかではあったが、政治犯として逮捕、さらには処刑される恐れは40年代末、韓国のほうが大きかったのだ。1950年夏、韓国の刑務所には約1万4千人の政治犯が収監されていたという。

韓国の大部分は事実上内戦状態だった。これはパルチザン活動を組織する当時の共産党員たちだった。彼らは北から支援を受けていた。
韓国の憲兵および軍隊の矛先は赤いパルチザンそのものよりも、むしろそれを支援する民間人に向けられた。このような民間人は少なくなかったため、弾圧活動は時として大規模なものとなった。
さらに赤いパルチザンらも敵へのテロルを行った。正確な犠牲者の数は分かっていないが、おそらく15万人がテロルの犠牲になったといわれている。チェジュ島では住民の約10%が殺されたが、全国に似たような状況があったのだ。

付け加えておくが、李承晩政権は幾度も北への武力侵攻と武力統一を呼びかけていた。結果的には北が侵攻することとなったが、南も戦闘意欲は旺盛だった。つまり歴史には黒も白もなく、軍事紛争においては両者が悪い、ということをこれは物語っているかも知れない。

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8月13日放送 ロシアの声・ラジオジャーナル