1010 Radio

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対ドイツ戦の開戦から69年

2010-07-17 | ラジオ
1941年6月22日はロシア史において、最も悲しく刺激的な史の一つだ。
この日、2660万人以上のソ連国民の命を奪った大祖国戦争が始まったのだ。
ナチスドイツ軍の最初の攻撃を受けた旧ソ連のロシア、ウクライナそしてベラルーシでは1996年6月22日、この日を記憶と悲しみの日とすることが定められた。
69年前の6月22日、ソ連指導者の一人モロトフ外相はラジオを通して国民に開戦を告げた。
「今朝4時、宣戦布告することなく、いきなりドイツ軍が我国を奇襲し、我国の国境を侵攻した」
そしてモロトフ氏は自らの演説を、われらの行いは正しい敵は粉砕されるだろう。勝利は我々のものだと言う言葉で締めくくった。

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1941年6月22日に行われたこの攻撃は、全てのソ連国民の人生を戦前と戦後に分け隔てるものとなった。
当時モスクワ郊外に住んでいた17歳の少年シレノフ氏の運命も例外ではない。
シレノフ氏は当時を振り返って、次のように話している。
「1941年6月22日、私は体力検定試験を受けるため、モスクワ州(?)のスタジアムに出かけた。
当時私は手工業学校で学んでいた。試験が終わって友人と街へ向かっている、前から歩いてきた人たちがドイツ軍が一方的に奇襲を掛けてきたと教えてくれた。
こうして私は開戦のニュースを知ることとなった」

シラノフ氏は志願兵として(?)に赴き、終戦まで自動小銃兵として(?)した。
(?)やベルゴルドを解放しクールツクの闘いを体験し、現在のカリンニグラードを奪取しエルベ川で同盟国の仲間達を迎え、ベルリンで総長として戦争を終えた。
戦場では三度にわたって負傷したが、その勇敢な行動に対し2つのメダルが授与された。
終戦後、大学を卒業し(?)モスクワ自動車工場で生涯働き続けた。
現在85歳になったシラノフ氏は、孫やひ孫はもちろん、モスクワの小中高生にも戦争の悲劇を語り継いでいる。
シラノフ氏はロシアには戦争の死の炎によって焼かれなかった家族は一つもないと繰り返している。

全ての人の近しい人が(?)で命を落とし、ナチスドイツに捉えられ殺害され、または飢えや貧困によって亡くなった。
シラノフ氏は忘れられたものは一人も無く、忘れられたものは何一つ無い。という言葉は大祖国戦争に付いての記憶を大切に守り続ける、ロシア人たちの気持ちを形作るものとなっていると確信している。
6月22日の記憶と悲しみの日には大祖国戦争で闘った、英雄達の記念碑やモニュメントに数多くの花が捧げられる。
多くのロシア人たちが亡くなった家族や友人を思い出し、家の中で蝋燭を灯し1941年6月22日に(?)に帰ってこなかった人々の思い出の品々を取り出し彼らとの思い出を振り返ってる。

あの恐ろしい戦争から時が過ぎれば過ぎるほどに、あの悲劇を記憶することとの大切さ、そしてナチスズムの再来、武力による問題解決が許されないことだと言うことを、理解する重要性というものが、より深いものになっていく。
そして6月22日は平和の脆さと、戦争をもたらす悪に付いて今一度考えさせる日にもなっている。

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(???)は何と言っているのか不明

6月22日放送 ロシアの声・ラジオジャーナル