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映画 陸軍登戸研究所 → こちら

予告編 → こちら  日本の頭脳が集まっていた。殺人光線研究では 20M先のウサギを殺すことができた。

第一次世界大戦はそれまでの武力戦だけという戦争のかたちを変えた。空中から爆撃できる飛行機。塹壕を突破し構築物を破壊して突き進む戦車。押し寄せる敵兵を瞬時に多数殺傷できる機関銃。さらに生物化学兵器の禁断の扉を開けた毒ガス兵器の使用。こうした新兵器の登場により、非戦闘員も巻き込む無差別大量殺りく時代となったのだ。

 1919年、大戦終結直後、日本は遅れまいと直ちに毒ガス兵器の研究を開始。東京新宿戸山ヶ原に陸軍科学研究所を発足。8年後には「秘密戦資材研究室」を置き、諜報、防諜、謀略、宣伝的行為および措置に対応できる資材・兵器の発案に励んだ。1937年にはこれを担当する陸軍参謀本部第二部第八課が生まれ、初代課長に影佐禎昭が任命された。

この年の7月、中国では北京郊外の盧溝橋で〝発砲事件″が起き、これを機に日本軍は戦線を広げ12月13日には南京を攻略し占領。時同じくして神奈川県川崎市生田の丘陵地に陸軍の「実験場」が設立された。電波兵器の開発が目的だった。中国侵攻から太平洋戦争に突入した戦乱は拡大へ。資源なきニッポンに勝利をもたらすには独自の知恵と戦術が求められた。この「実験場」は、正式名称が隠され「登戸研究所」と呼ばれるようになる。やがて次々に研究棟を増やし所員も一千名に及んだ。

殺人光線、毒物や爆薬の開発、渡洋爆撃の代案としての風船爆弾、中野学校(スパイ養成所)と手を組んでのニセ札製造など、多種多様な秘密兵器、謀略兵器が発案された。実験中の所員の事故死。中国に出張しての生体実験による「殺りく」。-「登研」は戦場から遠く離れながら、その歴史に血の汚点を残した。

わたしは風船爆弾をつくっていた → こちら

国体護持、秘密厳守。研究所内外での言動は憲兵の監視下にあったが、将校以外は平服でサラリーマン生活と変わらなかった。加えて篠田鐐所長の指示により、勉学や専門技術の修得がそれぞれに時間を与えられ、戦後はその蓄積で専門職に就いた者は多い。

近隣の貧しい農村の人々にとって「登研」は憧れだった。就職できれば現金が入るからだ。中には徴用逃れのため入所した者もいた。一方、「登研」の傘下には多くの下請けが置かれブローカー的側面もあった。大学も命じられた国策研究を拒めば、一切の研究費も資材も与えられなかった。「自由で楽しかった」と懐かしむ所員は多いが、水面下では右向け右、の時代の風はここにも吹いていた。

伴繁雄集合写真

 秘密に閉ざされていた「登研」の実体験者が現れたのは二年前。生田の近隣に住んでいて「登研」に就職したのが18歳だったという太田圓次氏。伴繁雄氏の下で雑務を受けもったが、伴氏は上下差別のない優しい人だったと語る。その伴氏が南京や上海で人体実験を好んでやったという事実。誰もが「洗脳」を受けると「人殺し」も抵抗なくなるのか-。

中国で行われた人体実験 → こちら

 太田氏の千葉・一宮における風船爆弾放球試験は真冬の海岸でのこと。その後に肺浸潤の病にかかったのも「戦争のせい」だ。その点では、風船爆弾の気球紙づくりに動員された全国の少女たちも同様に“奴隷扱い”を受けた(東京はゆるかった)。こうした姿をカメラで追ううち、後ろでいい思いをしている化物たちが見えて来た。“原発ムラ”に似て、天皇を守ることで彼らは戦場でさえうまい飯と酒と女に溺れていた。彼らにとって戦争は長びいてほしかったとしか思えない。

以上

戦後の帝銀事件でつかわれた毒物は 登戸研究所製だった → こちら

同じく 《中国の経済を乱すため当時として45億円もの中国の偽札がこの研究所でつくられ、30億円もの偽札が中国で使用されたという。》

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日本も相当 悪かった.......



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