思い切って 息子の運転ででかけました。曲がりくねった大門街道をぬけ 1時間半ほど 懐かしい前宮です。
ウラのお山は建御名方命・后神八坂刀売命の墓所であるそうです。
前宮の柵のなかには 大祝のお墓もあるそうです。大きなヘビがいるそうですがもっともなことでもあります。ティンシャを鳴らしお参りしました。前宮には大神神社につうじるような やはらかな清澄な氣があります。とても好きな神社です。
→ こちら
以下抜粋
古くは八段ある最上部に神陵(古墳)があった。その下にある「御霊位磐」と呼ばれる平らな石の上で、大祝が30日の精進を行った。その後、雨風をしのぐためか、茅葺きで棟には千木がある切り妻造りの仮屋が建った。
前宮のおやま(土地の者はおやまと言う)の東部に諏訪大明神の御神陵が鎮まる。そして、その御神陵西部、前宮の拝殿となっている御霊位磐の正面が后神(きさきがみ)八坂刀売命の御神陵であると伝える。そして前宮おやま全域は古代大祝一族の神霊鎮まる墳墓であって、露出している岩石はみんな神族を埋めたとき置いた墳墓の「瑩石(たまいし)」とみてよい。
江戸期諏方明神祭祀が上社(本宮)に移る以前は、とうてい庶民子供の寄りつかれる所ではなかったろうが、慶長六年藩政以後、否、明治中期でも、「お明神さまの御神陵(おはか)であるから決して上へのぼってはいけない。のぼると罰が当たるぞョ」と、どこの家でも子供にきびしかったし、子供としては巨樹と薮木の多いおそろしい所であった。
郷土ではお明神さまの藤の蔓を刈るとその家は絶える──と伝えている。
明治維新頼武大祝のとき前宮正面裏の欅の巨樹が枯れた時(径八尺)大祝はこれを売り下げ、あとの切り株をも某等四人が買い受けて二、三尺掘り下げたところ、俄に卒倒する者、手足のしびれる者、発熱する者が出てそのため、おそれをなし中止し再び土をかけてしまったが、間もなく杣(そま)の頭をはじめ他の者も死んでしまったことがある。これを見た頼武大祝も熱を出して暫くの間動けなかったため神罰のおそろしさを今も語り草としている。
以上
帰りは299号線 エコーライン? で帰ったのですが アイスバーンがそこここにありヒヤヒヤでした。 長和村と蓼科と氣 が全く違うのはなぜだろう と以前から気になっていたのですが ふと気がつけば 蓼科は八ヶ岳のウラ 清里の反対側になるわけです。蓼科の霊気は 八ヶ岳からのものかもしれません。ただ....蓼科神社のお屋根が崩れかかっているのは気になりました。飯館村のことなども思い出しました。
なんとか夕陽のうちに帰りました。このごろ夕焼けが見事ですね。ハレーションを起こして黄金色に輝きいかにも神々の黄昏を想い起こさせる でも このハレーションはケムトレイルの仕業ですから 気にすることはありません。
片岡ゼミの宿題 2話 と 蘇州夜曲をパーソナルスト-リーに戻したお話できました。不思議なのはものがたりはつねに完成した(わたし流ですが)かたちであらわれるということです。空中からほどくというかひっぱりだす感じです。