遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



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先週 障碍者施設から語りの依頼があり 見学にうかがいました。

施設に入った瞬間 きてよかったのだろうか....という思いが過ぎりました。これは....覚悟がいるなと
と感じました。
 
案内されたのは19歳から20歳の4人の青年の部屋でした。ひとりは終始 奇声を発していました。
19歳から20歳の青年4人が
いました。担当のお世話の方が
おはなしをしてくれるひとがくると
すこし軽度の
青年が
たのしみにしていた
とおっしゃるので それでは語らせていただきましょうと申しました
 
直感で最初は対面の語りがいいなと思いました。4名でうかがったのでわかれて語りました。
 
わたしは寝たきりの悟くんのかたわらにひざまづき 小さなその手をとって あいさつしてから語りました。
寝たきりの話すことも からだを動かすことも
できない悟くんですが 語っていると
 しきりにおなかを揺するのです。担当の方が やっぱり (読み聞かせとは) 全然ちがう と驚かれました。おなかをゆするのは
悟くんのうれしいを伝える唯一の表現なのだそうです。
......
手白の猿 という群馬の民話 大旅行というね
ずみとおかあさんのはなし それから 豆子
のはなしを語りました。
語っているうち ものがたりではなくことばでなく 声の響き
がうれしいんだと感じました。
母音をたいせつに ゆっくり こころをこめて
語りました。
健常の子ども おとなへの語りにおいても 響きの重要性は感じていたのですが この出会いは意味深く思えました。悟くんには 運命的なといいますか 呼ばれていったような気がしています。
 
寝たきりで 身動きのできない青年がもうひとりおりました。ふたりを見て いのちがありのまま 無防備に虚飾なく そこにあるのだという畏れにも似た感情がわきあがりました。わたしたちは生きるにさいし さまざま身を守る鎧を身に着けます。自分の気持ちを押し隠し 他者の視線から守るために。はだかでは生きてゆけません。けれども 無防備の青年のまえではそのような壁 鎧 虚飾は通用しないのです。ありのままの自分でなければ.....。自分のなかにいくらかあった差別の心は消えました。重度の方たちはその存在でわたしたちになにが大切かを教えてくれている......そう感じました。
 
 
その後 重度障碍者が19名殺されるという事件が起きました。右傾化 戦前回帰に誘導されてゆく世間の流れと これは無関係なのでしょうか。障碍者施設 老人施設で働く方々の給与は決して高くはありません。重労働 腰をわるくしてやめる方も多いと聴いています。いじめもあとを絶ちません。それは政府の福祉予算 子ども予算を低く抑えたいもくろみとかかわっているのですが 見過ごせない問題がほかにあります。ドイツでは 第二次世界大戦で20万の障碍者が虐殺されました。日本でも....
 
 
⇒ こちら     以下抜粋
 
いま障害者は、ある危機感を持っていると熊田氏は言う。「戦争などの有事の際には障害者は真っ先に切り捨てられる」というものだ。

 日本の障害者運動をリードしてきた藤井克徳さんは「障害者がすべての前触れになる」とよく話すという。藤井さんは、自身も視覚障害があり、日本障害者協議会の代表を務める。世の中の“空気”が変わった時に真っ先に切り捨てられる、生きている価値がないとして「価値付け」の対象になってしまう、そういう「変化」が一番早く押し寄せるのは障害者なのだと。「平和じゃないと生きられない」ということを、先鋭的に肌身に感じているのが他ならぬ障害者たち自身だという。

 これまで障害者の戦争体験はあまり語られてこなかった。

 戦前は障害者に対する差別があり、家族も家に隠すなどして表に出したがらなかった。昨年6月に沖縄戦を扱った番組で、熊田氏らは沖縄の障害者の人たちの証言を集めたが、激しい地上戦が繰り広げられた沖縄だけに、あまりにも辛い体験だったことに加え、「大変なのは障害者だけじゃない」という状況で、思いを胸に閉じ込めてきた人が多かったのだという。

 それがここ数年、生き残った障害者が少しずつ取材に応じ始めている。自分たちの年齢も考えて「伝え残さないと」という切迫感と、時代の空気に対する危機感から声を上げ始めているのだと、熊田氏は感じている。

日本兵「邪魔になるから殺せ」

[写真]障害者の沖縄戦体験について語る山田さん兄弟(提供:NHK)

 沖縄戦をはじめとして多くの市民が犠牲になった沖縄では、障害者もまた、凄惨な体験をした。昨年6月の番組で、その体験が語られている。

 1944年10月10日の「10・10空襲」。米軍機の大群が空を覆う中、左足にマヒがあった男性は一人で逃げられない。近くに爆弾が落ちたが、死を覚悟しながら何とか生き延びた。

 沖縄戦が始まった4月。那覇から北へ避難しようとした家族には2人の障害者がいた。家族でサポートしながら逃げる最中、「障害者は足手まといになる」と周囲の人たちから嫌味を言われることもあった。そんな中、視覚障害のある娘は父親に「私たち2人は置いていっていい」と告げた。父親はそれでも最後まで家族を守り続けた。

 障害を理由に殺されかけた事例もある。脳性小児まひで体に障害がある女性は、幼年時代、母親とともに満州から山口県に引き上げてきた。そこへ日本兵がやってきて「障害のある子供は有事の時に邪魔になるから殺せ」と母親に青酸カリを手渡したという。

 戦争中、障害者は「穀潰し」呼ばわりされることもあった。右半身にマヒがある男性もその一人。障害のため、兵隊になって国のために戦えない。徴兵検査で不合格になり、「国家の米食い虫」と言われた。

 そうした負い目や軍国教育の影響もあり、国のために戦いたいと考えた障害者もいた。障害があっても人間魚雷になら乗れる、と訴えたり、また視覚障害者は耳がいいので敵機の音を聞き分ける防空監視員になったりして、なんとか役に立ちたいと願ったのだ。

 以上
 
さぁ みなさん。山ゆり園の事件は 偶然おきたことなのでしょうか?
 
 
 


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