瀬織津姫神 は日本でもっとも謎の多い神である。
封印され 名を消された女神 それだけでも充分 ひとの心をひきつけるのであるが それゆえ
ひとは想像をたくましくして 美穂津姫も瀬織津姫 瀬織津姫はマリアなどと 際限がない。
一方 伊勢神道 ...のちに 国家神道を信奉する方々にとっては 瀬織津姫は 祓戸四神 の
おひとりに過ぎない。伊勢系 国津神系では 神社庁の庇護も 春と冬ほどに異なるので 神社
関係の方々も あえて アラハバキはおろか 瀬織津姫 にも触れたくない方も おられるようだ。
瀬織津姫を埋没神として 考えるに
① クナト アラハバキ まで さかのぼるか....
サエの神 道の貴
(大陸からわたられた神であるかどうか .....白山信仰)
② 実在神かどうか
③ 実在神ならば ニギハヤヒの妃神なのか
ひとつひとつ 年代を見 各地の神社につたわる 伝承を ひもとき むすびつけてゆくという
気の遠くなるような 作業が必要である。そのことは 先達がなさってきたことなので わたしは
なぜ 瀬織津姫にこれほどまでに惹かれるのか 神社遍歴ならびに 氣 をもって 自分なりの
納得いく こたえを さがしてゆきたい。
氣 ... について記憶をたぐってゆくと 熊野
(熊野の祭神は瀬織津姫 と いわれる .... 朝廷が伊勢に詣でた記録は 少ない。
圧倒的に 熊野詣が多かった。 )
熊野の奥宮 玉置宮 わすれがたい 元 本宮であった大斎原 の 氣は 出羽三山 に
似ている感じがある。 出羽三山は 一時 鳥海山 月山 羽黒山 であったという。
もうひとつ 強く感じたのは 元伊勢の其の名も 瀧原宮 ....
元伊勢をめぐればなにか 見えてくるかもしれない。 ⇒ こちら
今日は 再度 生まれ育った 浦和を中心にかんがえてみようと思う。
わたしとえにしの深い神社といえば 調宮 岸町にある 地元ではつきのみや という。
七五三 や 12日マチ という酉の市 夏祭り 初詣 お宮参り 節目ごとに参拝した。
それから 氷川女体神社 .... 三室にあり なぜかわからねど 10歳の頃から惹かれてやまない
神社だった。
その調宮が 月讀神社であり 主祭神が瀬織津姫 であったと知ったのは 驚愕であった。
母のことばから 調宮のあたりはむかし 湖で 岸町 元岸村 とはその名残ではないかと
聴いて なお 驚いた。瀬織津姫は 瀧神 水神
月待ち 信仰 二十三夜 勢至菩薩 調宮を護る勢至菩薩は 水瓶をもっていらっしゃる菩薩である。
資料は 手に取るものの考えで 紅くも白くもとれるものでは あるが
古い神社の石碑に 日讀 月讀 とあり 強く惹かれ お日待ち 月待ちの風習を知り また二十三夜
について 気になっていたので 調べてみた。
柳田國男は 海上の道において
“ともかくも霜月二十三夜の前後、月の半輪が暁の空に、傾く頃が冬至であり、またおそらくは西洋の
クリスマスでもあった。ここを一年の巡環の一区切りとして次のうれしい機会のために備えようとする
考えは、大地にいたずく人々にとっては、ことに忘れがたきものであったと思う。指を折って干支(かんし)
を算える技術を学ばぬ以前から、すでに我々は穀母の身ごもる日を予知し、またそれを上もなく神聖
なる季節なりと、感ずることを得たのであった。”
と書いている。
この新嘗祭が11/23 勤労感謝の日 となったのだが 原初のあたらしい太陽の誕生を喜ぶ (冬至
に古い太陽が死するという考え)光の祭りが イエスの誕生日とされたように 瀬織津姫が 弁財天に
またお不動さまに 習合されたように 新嘗祭が 稲作以前の原初の信仰とかかわっていないとはいえ
ないと思うのだ。なぜ 二十三日 それも夜に i一年でもっとも大切な祭祀がとりおこなわれるのだろう。
天皇霊...が あたらしく 生まれ替わる祭祀であるという新嘗祭
新嘗祭 は 二十三夜講 二十三夜さま となにかしら かかわりがあるような気がしている。
...とすれば 瀬織津姫神とも つながりがあるのでは .....
瀬織津姫は 生と死のサエ 境 ノ神 再生の神 とも いわれている。
仕事に戻る時間になってしまった つづきはまたあとで....書きましょう。
武蔵國郡村誌
編纂;明治8~14年(1878~1882年)
足立郡
○浦和宿
字地 本宿 ・・・ 岸分宿 岸の下 岸 ・・・
神社
調神社 郷社 ~ 中略~ 天照大神 豊受比賣命
を祭る。社中に稲荷社 石神 蔵王琴平合社
第六天社の小祠あり
新編武蔵風土記稿の時代には”岸村”は存在して
いたが、武蔵國郡村誌の時代は浦和宿に吸収
され、字地として残っている。
信友考証(伴信友 神名帳考証)
文化10年(1813)
調神社
[式考]今浦和ノ宿ハズレニ在テ 調神社ト額ウチ
タリ、シラベノ神社ト云ヘリ、又月讀尊ト棟札打テ
月ノ神也トテ廿三夜ノ祭ナド行フ、別當玉蔵院
御朱印ノ社領アリト云ヘリ○信友按ツキト稱フニ
依テ月讀尊ト誣タル也、サテ調ノ字ノ俗訓ニヨリテ
シラベトヨメル也、○春村云 社地一圓ニ槻ノ古木
ニテ頗喬木アリ、是ニヨリテ思フニ調ツキハ槻ノ
借字ナリ
神社覈録
天保7年(1836年)~明治3年(1870年)
調神社
調は都岐と訓べし○祭神瀬織津姫命、
風土記○中仙道浦和驛に在す、地名記 例祭
月 日○惣國風土記七十七殘缺云、武蔵國
足立郡調神社、~中略~所v祭織津比也、
神祇志
明治25年(1892年)
調神社 ○今在浦和驛南岸村、俗稱月讀明神、按調訓
通、故誤
3.月待供養と調神社
調神社は、室町時代以来、月待信仰とも関係をもっていた。「つきのみや」が「月宮」つまり
月宮殿に擬せられたためであろう。月待信仰が室町時代から盛んに行われていたことは、
板石塔婆によっても知られるところであるが、浦和市内にはそれがまた特に多い。
月待信仰は月の出を待つ一種の民間信仰で、月宮殿におわすという月天子を頂き、
これを拝むのである。月天子の本地仏は勢至菩薩であり、その縁日は23日で、その夜講が
催されるのである。それで23夜講とか23夜様といわれるわけである。
浦和市の太田窪にも「二十三夜」という地名が残っている。
さて、調神社も月宮殿にされるようになると、別当月山寺には勢至菩薩像が祀られていた。
また社殿にも兎の彫刻が各所におさめられ、本来なら狛犬を置くべき神社の入口に、
これにかわり兎像を一対置いている。兎は月宮殿の使姫である。
調神社があったために浦和近在が月待信仰が盛んになったのか、それとも盛んだったために、
調神社も月待信仰の中に組み入れられてしまったのか、あるいは相乗作用があったのか明
らかにし得ないが、この関係は重視しなければならない。ちなみに、浦和市内にある月待供養
の板石塔婆は、十二基ほど確認されており、その数は県内のどの市町村よりも多い。
6.別当月山寺
神仏混淆時代に神社には社僧のいる別当寺があった。さきにふれたように調神社の別当寺は、
月山寺であった。月山寺について、『新編武蔵風土記稿』には次のように記されている。
月山寺、新義真言宗浦和宿玉蔵院末也、本尊愛染ヲ安ス、開山詳ナラス、昔ハ福寿寺ニテ
当社ヲ兼帯シ爰ニハ庵ヲ置テ守ラシメシヲ後年一寺トナシテ月山寺ト号スト云リ
以上