南斗屋のブログ

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寛政12年9月中旬・伊能忠敬測量日記・蝦夷地測量編

2022年09月26日 | 伊能忠敬測量日記
寛政12年9月11日(1800年)
朝から薄曇り、夜も同じ。朝六つ後大野村出立、九つ前箱館に着。道のり五里。直ちに御役所へ届出、御添触れも返却する。小林新五郎殿が取り次ぎに出られた。江戸へ帰る際の添触れをお願いした。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
ついに箱館に到着!
本日の旅程は大野村(北斗市)〜箱館(函館市)。道のりは五里(約20キロ)。箱館では役所での手続きを行うため、九つ(正午)前に到着しています。約20キロを行くのに半日で済ましてしまう相変わらずの速さ。

大野小学校前 to 元町公園

大野小学校前 to 元町公園



役所では着到届をし、箱館までの御添触れを返却。また、箱館〜江戸までの役所から添触れを発行してもらいます。
往路では着到届は日記に記録されていましたが、復路は記録されていませんでした。
⇒参考 往路の着到届

函館到着の際の伊能忠敬の届け - 弁護士TKのブログ

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寛政12年9月12日(1800年)
午前晴れ、午の中の刻から曇る。その後は晴れたが、夜は曇り。夜少し測量。
朝飯後、御番所よりお呼び出しがあった。

 帰府の添触れを渡すので、八つ半時までに罷り出なさい。以上
 九月十二日
上包 伊能勘解由殿      御番所

#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
手続き待ちで箱館に逗留。
昨日、忠敬は役所に江戸へ帰る際の添触れをお願いしていましたが、本日出来上がりました。呼出の書状が届いてから、出頭する決まりのようです。先触れと添触れも日記に記録されていますが、長いのでブログに譲ります。

帰路箱館からの先触・添触(伊能忠敬・測量日記) - 弁護士TKのブログ

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寛政12年9月13日(1800年)
朝から曇天、九つ後小雨、夜大風雨。夜、津軽家の笹森勘解由勘定奉行宛に箱館帰着を告げるため、竹内甚左衛門へ書面を遣わした。(箱館に逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
箱館にて止宿。笹森勘解由は津軽家の勘定奉行、竹内甚左衛門はその部下で箱館に詰めています。往路で三厩からは津軽候の御役船で渡船していますので、津軽家(弘前藩)にも帰着届けを出しておく必要があるのでしょう。今日まで箱館逗留で、明日に出立です。

寛政12年9月14日(1800年)
(昨夜は大風雨であったが)六つ前に雨はやむ。昨日竹内甚左衛門へ箱館帰着の報告の書面を遣わしたが、本日朝返事が届いた。朝五つ頃箱館を出立。ほどなくして雨、午後まで降る。戸切地にて中食。三谷、富川を通り、茂辺地に七つ半に着。止宿。夜晴れて風あり。寒さ甚だし。測量するには適さず。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
箱館を出立。松前を目指します。
本日の旅程は箱館(函館市)〜茂辺地(北斗市)。地図上では約21 km。旧暦9月中旬にもなり、夜は晴れたものの、かなりの寒さで天体観測をするには適さないのも無理はありません。

元町公園 to 茂辺地小中学校

元町公園 to 茂辺地小中学校



寛政12年9月15日(1800年)
朝から晴天、六つ頃出立。三ツ石を通り、喜古内で中食。知内へ七つ頃着。止宿。夜中も晴れたので、測量を行う。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日の旅程は茂辺地(北斗市)〜知内(知内町)。地図上では約30 km。本日の宿泊地「知内」からは松前藩領です。松前から知内までが松前藩領で、知内川を境として、御用地(幕府領)となります(5月21日条参照)。

茂辺地小中学校 to 知内町役場

茂辺地小中学校 to 知内町役場




寛政12年9月16日(1800年)
朝から晴れ曇り。六つ後出立。四里半行き、一ノ渡で中食。そこから二里半行き、七つ時に福嶋へ着。止宿。夜中晴れ、測量。
#伊能忠敬 #測量日記 
(コメント)
本日の旅程は知内(知内町)〜福嶋(福島町)。道のりは四里半+二里半=七里(約28キロ)。夜晴れたため「測量」(天体観測)。昼は毎日30キロ近くを測量し、さらに夜に天体観測。忙しい日々です。

知内町役場 to 福島町役場

知内町役場 to 福島町役場



寛政12年9月17日(1800年)
昼は曇り晴れ、夜は晴れ。朝六つ半福嶋を出立。アラヤにて中食。道のり五里で松前城下に八ツ半頃着。宿はカラツナイ町の升屋吉右衛門の弟傳右衛門。福嶋からの行程であるが、一里程行き吉岡、そこから半里程で吉岡峠。吉岡峠は白カミ峠ともいい、海岸は白カミ岬である。吉岡峠は大峠であった。松前に着いた時に、役人と栖原屋小右衛門が出迎えに来てくれて、宿へも顔を出してくれた。栖原屋小右衛門は、箱館会所の御用聞きである栖原屋庄兵衛の子。夜晴天、測量(天体観測)。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
松前に到着!蝦夷地測量旅行の最終地点。ここから本州の三厩に明日渡船の予定です。箱館からは三泊四日の行程でした。
本日の旅程は福嶋(福島町)〜松前(松前町)。道のり五里(約20キロ)。途中、吉岡峠(別名白カミ峠)を通るのが、現代の道路とは異なるところ。

福島町役場 to 松前城跡

福島町役場 to 松前城跡


寛政12年9月18日(1800年)
朝から晴天、夜も同じ。本日朝飯後、松前で弁天の前山に登り、大嶋・小嶋等を測量。正午過ぎに風が吹いてきたので乗船し、出帆。乗船の際は松前侯から侍二人が見送りにきていただいた。この船は、松前候の御役船である。(往路の)三厩から箱館・松前へは津軽侯の御役船であった。着船の際は、船頭に酒を遣わす予定であったが、この日は順風だが風弱く、船行はかどらず。夜四つ頃三厩へ着。海上七里というけれども、五里未満ではなかろうか。
#伊能忠敬 #測量日記 
(コメント)
ついに三厩(本州)に到着!
往路では風待ちで三厩(青森県)に長逗留を強いられたチーム伊能ですが、復路は順風が吹き、松前での風待ちは午前のみ。風待ちの際も山に登り、測量を行っています。
渡船。風が弱いため正午過ぎに松前を立つも三厩到着は夜四つ(午後10時)。お疲れさまでした。
 往路(三厩⇒箱館を狙うも吉岡着)は津軽藩の御役船でしたが、復路は松前藩の船。松前〜三厩は海上七里(約28キロ)といわれていたようですが、五里(約20キロ)未満ではないかとの疑問を呈しています。

寛政12年9月19日(1800年)
朝から晴天、夜は薄曇り。今朝御勘定組頭村田鉄太郎殿が三厩を出立したので、午の刻前に先触と共に添触の写しを添えて出す。(三厩に逗留)
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
本日は三厩に逗留。往路では渡船の風待ちのため三厩に長逗留を余儀なくされましたが、逗留は本日のみの予定。
①本人の先触、➁役所の添触(ご証文)、③村役人から各宿への添触が、当時の公用旅行者の三点セット。公用旅行には欠かせないものであり、忠敬の測量日記ではこの点の言及が頻繁にあります。

寛政12年9月20日(1800年)
朝から薄曇り、昼は小雨、夜は中雨。朝六つ後三厩を出立。今別村を通り、母衣月で中食。ここの海にはシヤリ石があり、今別の海辺には津軽石がある。七つ頃、平館村に着き止宿。三厩から村々の役人の案内があった。
#伊能忠敬 #測量日記
(コメント)
いよいよ本州最北端から江戸に向けての旅が始まりました。本日の旅程は三厩(青森県外ヶ浜町)〜平館(平舘;青森県外ヶ浜町)。津軽地方の村役人さんは非常に親切で、チーム伊能の道案内をしています。これは往路でも同様。人情に篤い土地柄です。

外ヶ浜町 三厩支所 to 外ヶ浜町役場 平舘支所

外ヶ浜町 三厩支所 to 外ヶ浜町役場 平舘支所


本日の日記ででてくるシヤリ石は、舎利石のことでしょう。忠敬は、舎利石と津軽石を区別していますが、現代ではこの区別がされているのかよくわかりませんでした。現代では「錦石」と呼ばれています。

青森県の伝統工芸品(錦石)

錦石 (にしきいし) "Nishiki"StoneProducts磨きぬかれた光沢が美しい津軽石「錦石」「陸奥の錦石」として名高い青森の錦石は、碧玉、めのう、玉髄などの石英...

青森県庁ホームページ


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