南斗屋のブログ

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文政10年9月中旬色川三中「家事志」

2022年09月22日 | 色川三中
土浦市史史料『家事志 色川三中日記』第二巻をもとに、気になった一部の大意を現代語にしたものです。

文政10年9月11日(1827年)
(編集より)本日の日記の記載はなく、お休みです(明日再開)。
#色川三中 #家事志

文政10年9月12日(1827年)乙卯
結婚以来、妻の実家(谷田部)に顔を出しておらず、吉兵衛同道で夜明け前に出立。大鯛、平目、小鯛各一枚を持参。途中、板橋(つくばみらい市)に寄る。谷田部着は七つ(午後4時)過ぎ。夜に帰るつもりが、引き止められ泊まることになり、酒を酌み交わす。
#色川三中 #家事志
(コメント)
妻の実家である谷田部(つくば市)を訪ねる記事。三中は従業員の吉兵衛と同道していますが、妻は家で留守番の様子。これが当時としては普通だったのでしょうか。日の出にでたのに七つ(午後4時)過ぎに着いた、夜になったら帰ろうとしたとありますが、マップを見ていただければわかるとおりかなり大回りの寄り道をしており、どこまで本気かはわかりません。

土浦小学校 to 谷田部町総合体育館

土浦小学校 to 谷田部町総合体育館



文政10年9月13日(1827年)晴
昨夜土浦に帰るはずが、深酒で妻の実家に泊まった。朝深酒の失礼をわびたが、また酒を出された。人が来て半日余り過ごす。内密の相談があるという者もおり、相談にのった後にまた一杯。ようやく谷田部を立ったのが七つ時(午後4時)。
#色川三中 #家事志
(コメント)
妻の実家に来ている三中ですが、歓待を受けて、昨日帰る予定が今日となり、今日の朝に経つはずが、ずるずると夕方まで酒を呑んでしまいました。どうも酒を前にしては意志が弱くなってしまうようです(別の日には、酒の飲みすぎはいけない身を慎まなければと書いているのですが…)。

文政10年9月14日(1827年)丁巳 晴
町の世話人から寄付の依頼あり。帳面を見ると隣の主人は金二朱、川口の祖父も同じ金額。川口には蔵と隠居(祖父)だけなので、祖父と併せて二朱でもよいはず。が、そうもいえず200文足して、併せて二朱200文とした。
#色川三中 #家事志
(コメント)
寄付金をいくら出すかという話です。三中の時代は「家」単位であり、隠居は「家」の中に含まれるので、隠居が出したのとは別に出すのはおかしいだろうという考え方をしています。現代の「世帯」単位の考え方からすると、三中がケチっているようにしか見えないかもしれませんが、「家」単位で考え、他の「家」ともバランスを欠いてしまうのでも何かと問題があったのでしょう。


文政10年9月15日(1827年)晴
塩代金のことで、数人の者が江戸に行ったまままだ帰村しない。そう長い取引でもないのだから、あまり長くもめても得にならないどころか、出金の方が多くなるのではなかろうか。
諺にも「前車がくつがえるのを見て、後車のいましめとせよ」というではないか。人と行動を同じくするのではなく、もめごとはさっさと済ませてしまうのがよい。
#色川三中 #家事志
(コメント)
塩の代金のことで訴訟をしている者がいるようです。江戸での訴訟は珍しくないようで、三中の親戚も江戸を行き来していました(8月23日条)。三中の訴訟に対する見方はクールで、冷静に損得を考えて、さっさと終わらせてしまうのがよいと述べています。
(コメント)
江戸時代は訴訟は付添人もいましたから、集団心理が働きやすかったのでしょう。「人と行動を同じくするのではなく」という言葉からは三中の個人主義的な考え方を見ることができます。

文政10年9月16日(1827年)曇少々風あり
下高津にある常福寺で火事があり、主屋と小屋が焼失。土浦からも火は大きく見えた。町む中の者が悉く出て火事を見物した。町内の纏らが消火に取りかかっていた。我々には町組の役人から、炊き出しをせよといわれ、準備したのだが、消火が早かったため炊き出しは間に合わず。
#色川三中 #家事志
(コメント)
下高津(土浦市)の常福寺(現存)は、三中の家から約1.5キロくらいの距離です。火事で町中の者が見物、纏による消火活動というのはよく聞く話ですが、纏らのバックアップとして炊き出しがあるというのはこの日記を見て、そういう役もあったのだなと思いました。

土浦小学校 to 常福寺

土浦小学校 to 常福寺



文政10年9月17日(1827年)庚申 晴 立冬
・細井玄庵老が妹連れで土浦に来られた。女連れゆえ、木村様のお屋敷に泊まるとのこと
・庚申であり、神道庚申の掛物や大黒天を出して祭る。灯火に俳諧をしたためて送ると、即刻細井氏来る。酒肴を出し、夜もすがら話し積鬱を散ず
#色川三中 #家事志
(コメント)
細井玄庵は色川三中の風流友達。仕事の付き合いではなく、こういう友人を持てるのは良いですね。妹連れなので、三中の家には泊められないという当時の感覚が興味深い。「木村様」は土浦藩の家臣で、町民なのに藩士の家に泊めてもらえる、その交流ぶりもまた面白い。

文政10年9月18日(1827年)晴れ七つ下り雨少々降る
ならや長兵衛殿の代人宗兵衛殿が来られた。9月7日に来られて以来である。別のところに用があって行って来られ、その帰り道に寄られた(続)。
#色川三中 #家事志

(承前)宗兵衛殿は安食で私の親類と偶然あい、「何卒足下色川氏を悪くしないでほしい、色川氏は逃れられない立場にあり苦労しているのだ。できるだけ勘弁してやってほしい」との話をきいたとのこと。酒肴も出しながら交渉
。債務は2両3分以上負けてもらい、残金2両で合意。
#色川三中 #家事志
(コメント)
宗兵衛という人物は、ならや長兵衛の代理人として債権回収等をしており、安食(かすみがうら市)にも案件を抱えていました。その帰り道で土浦にもより、三中と回収の交渉をしています。親類の言葉と酒肴のおかげで、債務は大分負けてもらえたようです。

文政10年9月19日(1827年) 晴
朝五つ時、色川治兵衛殿死去。組合衆両人からそのことを聞き、即刻赴く。7月から長病であり、また老年であったので致し方のないことである。浅吉を手伝いに遣わす。七つ過ぎ羽織はかまで、色川治兵衛殿の野辺送りをする。
#色川三中 #家事志
(コメント)
高齢で長く患っていた親戚の色川治兵衛が亡くなりました。人が亡くなると地域の組合の者二人が触れて回っていたようです。葬儀では羽織はかまを着用するのも当時の礼儀です。以前、袴で葬儀に出たときは雨で濡れてしまったことがありました(8月15日条)。

文政10年9月20日(1827年) 晴
八つ過ぎ時、細井氏が柿岡(石岡市)から土浦に来られた。しいて引き止め、泊まっていただいた。夜遅くまで国学や医談に及び、雑談に時を写した。
#色川三中 #家事志
(コメント)
細井氏は三中の風流仲間。先月は手紙のやり取りの記事がありました(8月16日条)。泊まって語り合ったのは4月下旬以来のこと。話題は国学や医談。19世紀前半の土浦で国学が町民の中でも流行りだったことがわかります。


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