1.東京/マイ・ペース 1974年10月
吉田拓郎の歌以外でベスト10を選べといわれればこの曲は絶対に入れる、というくらいの曲である。
1974年といえば昭和49年、高校3年生であった。
で、この曲がよく流れてよく聴いたのは次の年、東京に住んでいるとき、であった。
東京といったって、賑やかで華やかな場所で流行の先端を行っている、ばかりではなくて、私の行ったところはただ建物がぎっしりと並んでいるだけの街であった。
でも「美し都、花の都」だと思っていた。
それだけ、東京、に憧れていた。そんな年代だった。
東京へ恋人に会いに行き、どんな時間をすごしたのかはわからないが、東京からというか恋人から離れて日常へ戻る、そんな「せつない」気持ちが、詩と曲によく現れている、心情的にひじょうに理解できるのである。
さて、この歌にはもうひとつ欠かせないというか忘れられない思い出がある。
東京で一人暮らしをしていたある日、もっとも大切な友人から一通の手紙が届いた。(といっても、高校時代から我々は長い手紙を送りあっていたのであるが)
その中に
「東京」の歌の23秒部分が非常によい!
という文面があった。
なんだろうと、大いに興味を持ち、時計を片手に本気で聴いた。
23秒後私は笑い出していた。
その部分は
♪走馬灯のように めぐりながら♪というところ。
意味は・・・当時彼が好きだった人の名前が「相馬」さんであった・・・というだけなのであるが。
以後、この曲を聴くとどうしても「23秒」の部分で、にやついてしまうのである。
<東京>というのは、我々の青春時代には、とてつもなく可能性を秘めた、ただそこにいっただけで何かいいことがある、そんな印象がある「コトバ」だった。
この歌を聴くと<東京>に憧れていた日々を甘く思い出すのである。
2.白いギター/チェリッシュ 1973年9月
チェリッシュはなんだかすごくさわやかで、あまりにもさわやかすぎて、切ない恋の歌を歌うのだが、いずれハッピーになるのではないだろうか、と思ってしまって、流して聴いてしまうのである。
♪白いギターに変えたのは 何か理由でもあるのでしょうか♪
といわれてもなあ、なんて思ったりしていたのである。
と思いながらも、白いギター、欲しかったりして。
でも、白いギターってなんだか安っぽかったんだよなあ。
と思いながらも、白いギター、欲しかったなあ。
あまり好きではない、といいながら、よく歌っていた曲ですねえ。
3.20歳のめぐり逢い/シグナル 1975年9月
この歌も好きだったなあ。
とはいうものの、吉田拓郎ファンとしては、いわゆるこういう「軟弱もの」については<フン!>という態度をとらざるを得ず、内面と外面で葛藤をしていたわけです。
別に誰からか<軟弱もの>を好きだということについて非難されるような立場であったわけでもないのに、なんだかひっそりと、そして「ホントはこの歌好きじゃないんだけれど流行しているから仕方なしに歌っているんだもんね」と思いながらいたのである。
1980年ころからは、もうあまりこだわらなくなったけれど、この歌が流行していた頃はそんな気持ちだったんだねえ。
♪手首の傷は消えないけれど 心の痛みは
僕がいやしてあげる 優しさで 君のためなら
というのが、なんだかよかったんだけれど、
沢田研二が歌う「時の過ぎゆくままに」では
♪からだの傷なら なおせるけれど
心のいたでは いやせやしない♪
とあり「フーム」と思ったりした。
人と人の関係の中で、治せたりいやせたりする<傷>というのは違うのか、と思ったりもした。そして当時若かった私は、心の痛みをいやしてあげられる人、になりたかった。(もっとも心の傷を負っている人が私の目の前にいたわけではないのだが)
4.目覚めた時には晴れていた/伝書鳩 1976年5月
当時テレビを見られない環境にあった私は、人気ドラマの主題歌だったらしい子の歌には、あまり思い出がないのである。
時々ラジオから流れてくるこの曲を聴いて、目覚めた時には晴れていた、なんて、自分の人生でいえることがあるのだろうか、なんて、非常に暗く沈んで思ったりしたのであった。
でも、この歌を聴いたときだけそう思うわけで、実際には晴れていようが曇っていようが雨が降っていようが、目覚めたときはいつも不機嫌であった。なんだか悲しい。
5.すみれの花/岡本正とうめまつり 1973年12月
この歌も、聞き流していた歌である。
こういっては何なんだけれど、盛り上がりに欠ける、そういう印象である。
岡本正は「北鎌倉」が好きだった。
どれくらい好きだったかというと、本当に北鎌倉まで行き、歌詞にある
♪北鎌倉で降りて歩いてみませんか♪
に誘われ北鎌倉から鎌倉まで歩いたのである。
そういえば、鶴岡八幡宮でおみくじを引いたら「大凶」だった。
受験を控え、非常にがっかりした思い出がある。
6.さよなら/N.S.P 1973年6月
NSPは、彼らがアマチュアの頃から知っている。
というのは、彼らが岩手県の一関工業高等専門学校の学生あったころ、NHK岩手のFM放送に自分たちの曲を送ってそれが放送されていたのを聴いていたからである。(宮城県北部に住んでいたので岩手の放送もよく聞こえた)
で、リクエストがあってよく「汗」とかこの「さよなら」がかかっていたのである。
この「さよなら」は身近なカンジでそれでいてせつなくて、好きだったなあ。
♪ひとの言葉は悪いいたずら
愛は心にかいた落書きさ
いつまでも心にへばりついて
僕の心をさみしくさせる♪
とか
♪ぼくには君が大切なのに
きみだっておんなじはずさ
あれは嘘っぱちだったんだね
もういいよ さようなら さようなら♪
なんて部分がよかった。
つまり私、どちらかといえば<軟弱>だったわけなんである。
吉田拓郎の歌以外でベスト10を選べといわれればこの曲は絶対に入れる、というくらいの曲である。
1974年といえば昭和49年、高校3年生であった。
で、この曲がよく流れてよく聴いたのは次の年、東京に住んでいるとき、であった。
東京といったって、賑やかで華やかな場所で流行の先端を行っている、ばかりではなくて、私の行ったところはただ建物がぎっしりと並んでいるだけの街であった。
でも「美し都、花の都」だと思っていた。
それだけ、東京、に憧れていた。そんな年代だった。
東京へ恋人に会いに行き、どんな時間をすごしたのかはわからないが、東京からというか恋人から離れて日常へ戻る、そんな「せつない」気持ちが、詩と曲によく現れている、心情的にひじょうに理解できるのである。
さて、この歌にはもうひとつ欠かせないというか忘れられない思い出がある。
東京で一人暮らしをしていたある日、もっとも大切な友人から一通の手紙が届いた。(といっても、高校時代から我々は長い手紙を送りあっていたのであるが)
その中に
「東京」の歌の23秒部分が非常によい!
という文面があった。
なんだろうと、大いに興味を持ち、時計を片手に本気で聴いた。
23秒後私は笑い出していた。
その部分は
♪走馬灯のように めぐりながら♪というところ。
意味は・・・当時彼が好きだった人の名前が「相馬」さんであった・・・というだけなのであるが。
以後、この曲を聴くとどうしても「23秒」の部分で、にやついてしまうのである。
<東京>というのは、我々の青春時代には、とてつもなく可能性を秘めた、ただそこにいっただけで何かいいことがある、そんな印象がある「コトバ」だった。
この歌を聴くと<東京>に憧れていた日々を甘く思い出すのである。
2.白いギター/チェリッシュ 1973年9月
チェリッシュはなんだかすごくさわやかで、あまりにもさわやかすぎて、切ない恋の歌を歌うのだが、いずれハッピーになるのではないだろうか、と思ってしまって、流して聴いてしまうのである。
♪白いギターに変えたのは 何か理由でもあるのでしょうか♪
といわれてもなあ、なんて思ったりしていたのである。
と思いながらも、白いギター、欲しかったりして。
でも、白いギターってなんだか安っぽかったんだよなあ。
と思いながらも、白いギター、欲しかったなあ。
あまり好きではない、といいながら、よく歌っていた曲ですねえ。
3.20歳のめぐり逢い/シグナル 1975年9月
この歌も好きだったなあ。
とはいうものの、吉田拓郎ファンとしては、いわゆるこういう「軟弱もの」については<フン!>という態度をとらざるを得ず、内面と外面で葛藤をしていたわけです。
別に誰からか<軟弱もの>を好きだということについて非難されるような立場であったわけでもないのに、なんだかひっそりと、そして「ホントはこの歌好きじゃないんだけれど流行しているから仕方なしに歌っているんだもんね」と思いながらいたのである。
1980年ころからは、もうあまりこだわらなくなったけれど、この歌が流行していた頃はそんな気持ちだったんだねえ。
♪手首の傷は消えないけれど 心の痛みは
僕がいやしてあげる 優しさで 君のためなら
というのが、なんだかよかったんだけれど、
沢田研二が歌う「時の過ぎゆくままに」では
♪からだの傷なら なおせるけれど
心のいたでは いやせやしない♪
とあり「フーム」と思ったりした。
人と人の関係の中で、治せたりいやせたりする<傷>というのは違うのか、と思ったりもした。そして当時若かった私は、心の痛みをいやしてあげられる人、になりたかった。(もっとも心の傷を負っている人が私の目の前にいたわけではないのだが)
4.目覚めた時には晴れていた/伝書鳩 1976年5月
当時テレビを見られない環境にあった私は、人気ドラマの主題歌だったらしい子の歌には、あまり思い出がないのである。
時々ラジオから流れてくるこの曲を聴いて、目覚めた時には晴れていた、なんて、自分の人生でいえることがあるのだろうか、なんて、非常に暗く沈んで思ったりしたのであった。
でも、この歌を聴いたときだけそう思うわけで、実際には晴れていようが曇っていようが雨が降っていようが、目覚めたときはいつも不機嫌であった。なんだか悲しい。
5.すみれの花/岡本正とうめまつり 1973年12月
この歌も、聞き流していた歌である。
こういっては何なんだけれど、盛り上がりに欠ける、そういう印象である。
岡本正は「北鎌倉」が好きだった。
どれくらい好きだったかというと、本当に北鎌倉まで行き、歌詞にある
♪北鎌倉で降りて歩いてみませんか♪
に誘われ北鎌倉から鎌倉まで歩いたのである。
そういえば、鶴岡八幡宮でおみくじを引いたら「大凶」だった。
受験を控え、非常にがっかりした思い出がある。
6.さよなら/N.S.P 1973年6月
NSPは、彼らがアマチュアの頃から知っている。
というのは、彼らが岩手県の一関工業高等専門学校の学生あったころ、NHK岩手のFM放送に自分たちの曲を送ってそれが放送されていたのを聴いていたからである。(宮城県北部に住んでいたので岩手の放送もよく聞こえた)
で、リクエストがあってよく「汗」とかこの「さよなら」がかかっていたのである。
この「さよなら」は身近なカンジでそれでいてせつなくて、好きだったなあ。
♪ひとの言葉は悪いいたずら
愛は心にかいた落書きさ
いつまでも心にへばりついて
僕の心をさみしくさせる♪
とか
♪ぼくには君が大切なのに
きみだっておんなじはずさ
あれは嘘っぱちだったんだね
もういいよ さようなら さようなら♪
なんて部分がよかった。
つまり私、どちらかといえば<軟弱>だったわけなんである。
「東京」は自分の中で、付加価値が一番大きい歌です。これはたぶん変わらないので、ずっとそういうことになるでしょう。
あの頃は、まだ東京は特別な輝きを放っていて、一度は東京に出なければ、と多くの人が思っていた時代だった。たぶん、私達がそういう世代の最後でしょうね。特別な情報を持っていた街だったもの。
こんなに情報がどこでも共有できる時代が近くに来るとは想像できなかった。まるで違う時代を生きているような気がします。
「20歳のめぐり逢い」も好きだった。
私は軟弱な歌が好きだということを自覚していたので、それほど悩まずにいました。
今回はとにかく良かった。それに尽きます。
東京と二十歳のめぐり逢いは、ツーンとくる曲ですよねえ。
何かの拍子にこの曲が流れてくると「無関心」を装う自分がいます。
どうせ聞くなら、何かの拍子はイヤダ、みたいなところがあって、それに「ツーン」とくるとまともな状態にはいられないわけで、だから、特に誰かといるときに不意にこの曲が流れると、ちょっと身構えてしまいます。
今号は珍しく何回も聴いてしまいました。
勿論、一人で。