読書日記 嘉壽家堂 アネックス

読んだ本の感想を中心に、ひごろ思っていることをあれこれと綴っています。

天使の使い魔(しゃばけシリーズ) 畠中恵 小説新潮4月号

2008-04-06 22:34:24 | 読んだ
おなじみの「しゃばけ」シリーズである。

4月号では、若旦那が誘拐されてしまう。

諸々の事情は省くが、信濃山六鬼坊という大天狗と王子稲荷の狐とが喧嘩をした、というか意見の対立があった。
それで大天狗は大妖である皮衣の孫である若旦那を誘拐して、自分の意見を通そうとしたのである。

そして物語は、同じく狐と対立をしている狛犬が登場し、その誘拐に絡んでくる。

若旦那は例によって純であるから、誘拐されたといってもびくつくこともなく、大天狗や狛犬たちに同情をしたりして、結局は、狐たちとの仲介までしてしまうのである。

今回の物語の中で、大天狗が思っていることで考えさせられた。

「誰かが支える側に立たねばと、六鬼坊はそう思うのだ。皆が我こそは弱い、庇ってくれと言い立て、弱さの競い合いをする世では、支える側がいなくなっては困る。だからこそ長き日々修行を続けており、そのことに迷いはなかった。」

そうなのだ。このことは今の世の中に当てはまることなのである。
しかし、今の世の中支える側の修行が不足している。その不足していることをやたらと弱い側が責めたてるのである。
だから支える側に誰も回ろうとしなくなっている。
今は、弱い側のほうがなぜだか強かったりするのである。

さて、大天狗は迷いはなかったのであるが、
「なのに、だ。どうして一人でいると、そのことがこうも身に染みるのであろうか。」
とも思うのである。

修行を続け人を支える側になろうと迷いのない大天狗でさえこう思うのである。
ましてや妖ならぬ人のみにあっては、なのである。

それにしても「純(ぴゅあ)」というのは最も強いのかもしれない。
しかし今の世の中それもまた失われている。

今回の読後は「悲観」になってしまった。

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