映画館で観ようと思っていた「結婚しようよ」をDVDを借りてきて観た。
題名の「結婚しようよ」は吉田拓郎が歌ったもので、拓郎がメジャーになった歌、そしてその後の「帰れ!帰れ!」コールの要因ともなった歌である。
この歌はファンの間でも「好き・嫌い」或いは「賛否」などがあったのだが、ノー天気な僕には、拓郎の歌、であることでいいのである。
「結婚しようよ」の歌が当時強烈な印象を与えたのは、この歌のとおり拓郎が結婚したということである。
歌をつくってヒットしてその歌のとおり結婚するなんて、前代未聞、驚天動地、有言実行、であった。(どういうことだ?)
というわけで、非常に印象に残る歌であった。
また、当時なぜこの歌を歌うことがファンの間で嫌われ多くのコンサートで「帰れ!」コールとなるのか、よくわからなかった。
フォークのファンの心の狭さ、みたいなものが田舎の少年であった僕の心に植え付けられ、あんな奴らのようになるものか、と思ったものであった。
さて映画である。
映画では吉田拓郎の歌が20曲、場面場面で流れる。
主人公の香取卓(三宅裕司)は52歳のサラリーマン、妻と大学生の娘二人と暮らしている。
香取家のルールは、家族そろって夕飯を食べること、である。
このルールが物語のひとつの柱となっている。
長女の結婚と次女のライブ活動、香取夫婦の馴れ初め、などが描かれて、クライマックスの結婚式へと向って話は進んでいく。
この映画は、夫婦、家族、というものについて考えさせてくれる。
それは香取夫婦だけではなく、香取の顧客で田舎暮らしをはじめる菊島夫婦、そして新しく夫婦になろうとしている長女たちを通じて考えさせるのである。
主人公が、拓郎の歌をバイブルのように支えとして、体制に呑み込まれないように反発し、自然に生きていくことを望み、いつまでも俺たちは・・・と思っていたのに、実はすでに形式的であったり権威的であったりする存在になっていたことに気づき、がっくりする、というのは、ものすごく共感できるものであった。
主人公の気持ちの動きは手にとるようにわかるのである、しかしそれを客観的に観ることができるので、なんといおうか気持ちが泣き笑いの状態になってしまったのである。
50歳をすぎたのに、我々の世代の上には「団塊」がいて、まだまだ若造扱いである。
しかし、若い人たちからは十把ひとからげで形式的・権威的と思われ、今まで生きてきたことに疑問符がつき、これからの人生はまったく見えない、ものになってしまっている。
夫婦とか家族というのは理屈を超えてつながっているものである。ハズなのである。
なのに世の中は夫婦も家族も崩壊していっているようである。
若いころに持っていた「夢」をすてたことは「挫折」なのか、或いは体制に順応してしまったことは「転向」なんだろうか。
いろいろなことを思いながら、涙を流し鼻水をすすり上げて観終えたら、なんだかすがすがしい気持ちになっていた。
まだまだ「明日」は明るいと思ったのである。
追伸
嘉壽家堂本店のSpeakに『吉田拓郎のこと』というページを追加しました。ごらんいただければ幸いです。
「ブログ村」というところにこのブログを登録しています。読書日記を探しているかた、下のバナーをクリックするとリンクされていますので、どうぞご覧ください。またクリックしてもらうと私の人気度が上がるということにもなります。そのへんもご考慮いただき、ひとつよろしくお願いします。
題名の「結婚しようよ」は吉田拓郎が歌ったもので、拓郎がメジャーになった歌、そしてその後の「帰れ!帰れ!」コールの要因ともなった歌である。
この歌はファンの間でも「好き・嫌い」或いは「賛否」などがあったのだが、ノー天気な僕には、拓郎の歌、であることでいいのである。
「結婚しようよ」の歌が当時強烈な印象を与えたのは、この歌のとおり拓郎が結婚したということである。
歌をつくってヒットしてその歌のとおり結婚するなんて、前代未聞、驚天動地、有言実行、であった。(どういうことだ?)
というわけで、非常に印象に残る歌であった。
また、当時なぜこの歌を歌うことがファンの間で嫌われ多くのコンサートで「帰れ!」コールとなるのか、よくわからなかった。
フォークのファンの心の狭さ、みたいなものが田舎の少年であった僕の心に植え付けられ、あんな奴らのようになるものか、と思ったものであった。
さて映画である。
映画では吉田拓郎の歌が20曲、場面場面で流れる。
主人公の香取卓(三宅裕司)は52歳のサラリーマン、妻と大学生の娘二人と暮らしている。
香取家のルールは、家族そろって夕飯を食べること、である。
このルールが物語のひとつの柱となっている。
長女の結婚と次女のライブ活動、香取夫婦の馴れ初め、などが描かれて、クライマックスの結婚式へと向って話は進んでいく。
この映画は、夫婦、家族、というものについて考えさせてくれる。
それは香取夫婦だけではなく、香取の顧客で田舎暮らしをはじめる菊島夫婦、そして新しく夫婦になろうとしている長女たちを通じて考えさせるのである。
主人公が、拓郎の歌をバイブルのように支えとして、体制に呑み込まれないように反発し、自然に生きていくことを望み、いつまでも俺たちは・・・と思っていたのに、実はすでに形式的であったり権威的であったりする存在になっていたことに気づき、がっくりする、というのは、ものすごく共感できるものであった。
主人公の気持ちの動きは手にとるようにわかるのである、しかしそれを客観的に観ることができるので、なんといおうか気持ちが泣き笑いの状態になってしまったのである。
50歳をすぎたのに、我々の世代の上には「団塊」がいて、まだまだ若造扱いである。
しかし、若い人たちからは十把ひとからげで形式的・権威的と思われ、今まで生きてきたことに疑問符がつき、これからの人生はまったく見えない、ものになってしまっている。
夫婦とか家族というのは理屈を超えてつながっているものである。ハズなのである。
なのに世の中は夫婦も家族も崩壊していっているようである。
若いころに持っていた「夢」をすてたことは「挫折」なのか、或いは体制に順応してしまったことは「転向」なんだろうか。
いろいろなことを思いながら、涙を流し鼻水をすすり上げて観終えたら、なんだかすがすがしい気持ちになっていた。
まだまだ「明日」は明るいと思ったのである。
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