尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「五日市憲法」発見から50年

2018年08月27日 23時03分18秒 |  〃 (歴史・地理)
 岩波新書の新井勝紘「五日市憲法」を中心に、「民衆史」の意義について簡単に振り返っておきたい。2018年8月27日は「五日市憲法」が東京都五日市(現あきる野市)の深沢家土蔵から「発見」されてから、ちょうど50年目の日である。その土蔵はかつて見に行って写真と記事を載せたことがある。(「『五日市憲法』を見に行く」2013年11月4日)土蔵などはそっちを見て欲しい。

 先の記事では、「色川大吉氏の発見」というように書いているけど、実際に初めて手に取ったのは大学生として土蔵調査に参加していた新井勝紘氏だった。(色川ゼミとしての調査なので、「色川氏の発見」は間違いではない。)何人かの学生で土蔵に入り、たまたま担当した「二階の左奥」の蔵から「日本帝国憲法」という文書が出てきた。1968年8月27日のことだった。

 その時は何も判っていない。起草者である千葉卓三郎という名前は誰も知らなかった。急に卒論テーマを変更することにして、学生だった新井氏が探索に駆け回る。その様子は「五日市憲法」第4章にくわしく書かれている。歴史探偵の醍醐味を味わえるところだ。千葉卓三郎の遍歴の歩みの中に、明治初期の青年の知的彷徨が表されている。子孫にも会えて史料を確認できたのは、実に奇跡的なことだ。これほどの史料発掘にめぐりあうことは滅多にあるもんじゃない。

 その出会いが新井氏の人生も変えてしまう。「五日市憲法」はその憲法草案を解説した本ではあるが、新井氏の歴史研究に賭けた青春の書でもある。そこが一番面白い。もともと1968年という年は、当時の佐藤栄作内閣が「明治百年」を国家的に顕彰しようとしていた年である。「明治」という時代は、政府が言うような「バラ色」オンリーの時代、民族の誇るべき時代なんだろうか。そのような問題関心から、自由民権運動を担った民衆を研究することになる。

 「五日市憲法」と通称されるのは、山奥の村で作られた「私擬憲法」の草案だった。「私擬憲法」というのは、政府に対抗して民間で作られた憲法案のことで、多くの民権結社が作ろうとしていた。しかし、それは非常に難しい試みである。今なら日本国憲法を初め世界中の憲法を参考にすることができる。情報はウェブ上ですぐ手に入る。でも、そういう情報がなかったら…。憲法というものを民衆が作ってしまうということの大変さは想像を絶する。

 その意味では「五日市憲法」には多くの限界もある。そのことは新井氏の本を読めばよく判る。急進的であることで言えば、植木枝盛のものが一番だろう。でもそれは思想家である植木だからできたことだ。植木案では死刑廃止が書かれているが、五日市憲法では「国事犯に限り死刑廃止」とする。それはそれですごいことだろう。「五日市憲法」は権利の保障などが詳しいことが特徴だ。植木案にある「抵抗権」などは確かにないのだが、それも突出した個人による草案ではなく、多くの民衆が草案作りに参加したことの現れである。

 僕は色川氏らの「民衆史」がなかったら、歴史の教員にはなってなかった。歴史は小さいころから好きだったけれど、当時は日本の歴史はヨーロッパを追っているものだとする人が多かった。日本の歴史の中に、それも歴史に埋もれた民衆の中に、これほどの試みが隠れていた。日本の歴史を学ぶことの意味が自分で判った気がした。安倍首相は自民党総裁選3選への立候補を、なんと鹿児島県で表明した。桜島をバックにして「薩長連合」などと言う。驚くべき歴史への鈍感さ。「明治150年」に読んでおきたい本だ。
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