尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

高石ともや「あわてなさんな」-レアCDの話⑤

2018年08月26日 23時11分32秒 | アート
 「レアCDの話」として書いてきたけど、「レア」はこれでオシマイ。音楽の話をそんなにするつもりはなかったんだけど、なんだかまだ話がある気がしてきた。「定番CDの話」を続けようかなと思う。まあ自民党総裁選とかトランプ政権の政策論なんかを、この酷暑の中で考えたくない。オウム真理教や死刑制度に関しては、また書きたいと思っているがもう少し涼しくなってからにする。

 レアCDはいろいろあるけれど、最近よく聴いてるクラシックは「定番」が多い。最後は若いころからずっと聞いてる高石ともやさんにしよう。今回取り上げる「あわてなさんな」は谷川俊太郎の詩に曲を付けた5曲をはじめ「イマジン」や「私のこどもたちへ」なんかが入ってる。アイルランドのバンド、ザ・サファリン・ゲールと組んだもので、自分はよく聴いてるわけだが、世の中的には「レア」だろう。1997年に出たものだが、高石ともや公式ホームページから購入できる。

 世代的に70年代の「フォークソング」系をいっぱい聞いてきた。「フォーク・ポッポス 黄金時代」という11枚組のCDも懐かしいからつい買ってしまったぐらいだ。3枚組の「高田渡BOX」とか加川良のCDもあるから、レアかもしれない。当時はあまり聞いてなかったけど、「五つの赤い風船」が今もなお新しい風に吹かれているような新鮮さを持ってると思う。

 そんな中で個人的に一番思い出があるのが高石ともや(1941~)。1960年代後半に関西フォークで活躍し、「受験生ブルース」や「想い出の赤いヤッケ」などがヒットした。岡林信康と歌った「友よ」も永遠に忘れられない心の灯火だ。だけど、経歴を見れば立教大学文学部卒業で、元は北海道から東京の大学へ入ったわけである。その縁で70年代後半には、立教大学のクリスマス行事で「高石ともやとザ・ナターシャー・セブン」のコンサートを毎年やっていた。

 その頃から聴いているけれど、活動の様子はだんだん変わってきた。70年代初期には渡米してブルーグラスなどに触れ、帰国してからは「ナターシャー・セブン」として活動。名前の由来は福井県名田庄村(現おおい町)に住んだから。アメリカや日本の土着の歌を探し求めて「107ソングブック」(レコード大賞特別賞)を作った。そのCD版も持ってるけど、これはレアものかもしれない。「私のこどもたちへ」「」「私に人生と言えるものがあるなら」「十字架に帰ろう」とか、時々無意識に口ずさんでいる歌は大体その107曲の中にある。

 82年にナターシャー・セブンのマネージャーがホテル・ニュージャパンの火事で死亡し、活動は停止。その後はマラソンやトライアスロンの選手としても活動。100キロマラソンやアメリカ横断などにも挑戦、「君はランナー」「孤独のマラソンランナー」「自分をほめてやろう」などランナーを歌った曲を多く作っている。「自分をほめてやろう」は有森裕子の言葉で有名になった。また三浦雄一郎のクラーク記念国際高校の校歌なども作っている。(通信制だけど北北海道から甲子園に出場したこともあり、甲子園で流れた。)そんなことを書いてるとキリがない。

 「あわてなさんな」には谷川俊太郎の詩が5曲ある。「一人ぼっちの裸の子ども」「ワクワク」はもっと前の作った曲だが、「父の唄」「あわてなさんな」「じゃあね」はこのCDのために作った。その年の年忘れコンサートでは谷川俊太郎がゲストで登場し、それこそワクワクする対談を繰り広げた。「じゃあね」は老いがテーマだけに、これから大切になってくる歌かもしれない。

 それから日本語訳詞の「イマジン」が入っている。これはオノ・ヨーコ公認の唯一の訳詞である。これはどう訳しているか、ぜひ確かめて欲しい曲。そして何度聞いても、こんな美しい歌があるのかと思う笠木透作詞・作曲の「私のこどもたちへ」。毎年年忘れコンサートで聴いてるから、僕にはレア感が全然ないけど、まあ最後はずっと聴いてる人を紹介するということで。個人的な思い出を書き始めると、いろいろあるのでここでは書かないことにする。
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