尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

教員養成に「発声練習」を-私の教師論④

2015年06月03日 23時17分48秒 |  〃 (教師論)
 教師という仕事は、どういう仕事なんだろうか。「勉強を教える」というのが、普通最初に思い浮かべることだろう。実際、教師の毎日はほとんど授業をすることで費やされている。だけど、実際の感覚としては、「人間関係の調整」とか「人間観察」に追われている感じがする。よほどの進学校は別なのかもしれないが、大体の人は授業中も「学習内容」と同じぐらい「生徒の観察」に気持ちが向かっていると思う。ところで、実はもう一つ、案外教師が気付いていない仕事の特徴がある。それは「朝から夕方までしゃべり続け」ということである。授業であれ、その他の指導であれ、他の仕事以上に「言語的伝達」の重要性が高い。タテマエとして、言葉による説得が一番大事とされているからである。

 人間は言語だけでなく、相当の割合で「非言語的コミュニケーション」によって情報を伝達している。もちろん教師も同じだけど、目や手振りだけでは授業できないし、「あれ」「それ」「おい」とかだけでクラス経営はできない。生徒に明示的に指示しないと伝わりにくいから、他の仕事以上に「言葉による説明」を行っているのではないか。こうして、朝からしゃべり通しということになる。これはあまり言われていないが、「一種の特殊技能」だと思う。教師以外の人が急に同じことをやっても、のどが枯れたり、自分で何を言ってるのか訳が分からなくなってくるらしい。ずっと生徒から見られているという環境も特殊だし。外部講師を頼むと、「授業慣れ」していない人からは大変だったと言われるのである。

 「困った先生」にはさまざまなタイプがあるが、生徒全員に慕われる人もいないだろうと同じく、生徒全員に不評な場合も少ない。だけど、学級担任に持ち込まれて困ってしまうのは、「何を言っているのか判らない先生」や「声が聞こえにくい先生」に対する苦情である。「厳しすぎる(怖くてみんな萎縮している)」とか「おとなしすぎる(うるさい生徒を注意できない)」というのもあるが、こういう不満の方が対処しやすい。(理由は自分で考えれば判るだろう。)しかし、「何を言ってるのか判らない」というのは確かに困る。言語不明瞭もあれば、あちこち話が飛び過ぎる人もある。講演なんかなら面白い話で脱線するのも技だろうが、マジメすぎるような(ジョークもノートするような)生徒もいるので、脱線もほどほどにしないと「判らない」と言われたりする。空き時間に廊下から様子うかがいに行くと、確かに判んないなあという時もあって、そういう時は苦労する。

 今は採用試験のときに「模擬授業」をしたりするところが多いから、さすがに若手の中には「声が後ろまで聞こえない」という教師は少ないのではないか。だけど、昔は結構いた。大量採用時代もあったし、元気な志望者は学生運動でもやってたかと見なされ、おとなしそうな人を高評価した時代があるのかもしれない。生徒が静かに聞けば聞こえるだろうと、「静かに聞いてないオマエラが悪いんじゃ」というのは自分でもヘリクツだと思うが、そういうしかない場合もあったように思う。そういう先生も含めて、教師は言語を駆使するものに必要なレッスンを受けてない場合が多い。朝から晩までしゃべってるアナウンサーや俳優は、当然話し方や発声に関する研修、講習を受けているだろう。教師だけが、話の中身の問題は研修するけれど、発声の方法より生徒に通じるような言語コミュニケーションのあり方などを研鑽する機会がほとんどないのである。

 70年代から80年代にかけて、自己の「身体性」に対する関心が非常に高まった時期がある。学生運動が表面的には「言語的反乱」から始まりつつも、運動の担い手そのものが「肉体的な解放」から遠かった。また、60年代末には音楽、演劇などを中心に「肉体の解放」を追求するような新しい表現革命が起こっていた。だから、運動退潮後に「自己の生活」「自己の身体」を徹底して見つめ直す試みがあちこちにあった。そういう中で自己形成してきたから、「学校」という場は「肉体のこわばりをもたらす場」だという感じは抜けない。教師自体が役割意識を身にまとって、「自由な身体」を生きていない。しかし、それではごく当たり前の生活指導も生徒に受け入れられない。いじめに対処するにも、生徒が「先生は注意しているが、それは役割としてタテマエを言ってるだけだ」というメタ・メッセージを教師の身体から読み取ってしまうのである。

 自分自身は声を出すことに苦労したことはない。大きな声を出すのも苦にならない。年とともにだんだん滑舌が悪くなってきたような気はするが、まあ声を出すことそのものはあまり考えたことがなかった。だから学生時代に竹内敏晴「ことばが劈(ひら)かれるとき」(思想の科学社、のちちくま文庫)には衝撃を受けた。その後、林竹二と組んだ定時制高校での授業なども注目してきた。「竹内レッスン」そのものに通ったことはないんだけれど、野口三千三さんの野口体操には直接通ったことがある。やはり教員が自己の身体が抑圧されているときには、生徒に正しいことを言っても、「タテマエ言ってるぞ」というメタ・メッセージとして伝わると思う。だから、教師の長時間労働などは本当に解消しないといけない。

 それと同時に、大学でもそうだし、教師になってからも「発声練習」などを含めた「演劇レッスン」をやった方がいいと思う。宿泊行事などで使える「ゲームの練習」なんかはあるけれど、ちゃんと自分の身体に向き合う訓練はしてない場合が多いと思う。では、どうすればいいかというと、自分で探して参加する道もあるが、まあ、せめて本を読むだけでも。先に挙げた竹内敏晴さんには、「教師のためのからだとことば考」(ちくま学芸文庫)という本もある。簡単に手に入るのは、平田オリザの新書、講談社現代新書から3冊出ているが、毎日の教員ライフに役立つヒントがいっぱいある(という読んだときの記憶があるけど。)また、鴻上尚史の「発声と身体のレッスン」(ちくま文庫)、「あなたの思いを伝える表現力のレッスン」(講談社文庫)も役立つだろう。今、身近にすぐ見つかったのは鴻上さんの2冊なので、画像を載せておきたい。とにかく、教師というのは「発声」と「身体」によって情報を伝達する仕事、一種の役者なんだということを意識しておくだけで、ずいぶん救われる時もあると思う。それにこういう本は「ワザ」として知っておくということがあるだろう。
 
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