「教員という仕事」に続いて、朝比奈なを「ルポ教育困難校」の紹介。朝日新書から2019年7月に刊行された本だが、その時は買わなかった。忘れていたんだけど、当時本屋で見てちょっと気がひかれた記憶がある。でも買わなかった理由は、読んでみて思い当たった。
教員経験者の中には同じように思う人も多いだろうが、読んでいて辛いのである。自分も似たような経験をし、もっと上手く出来たのではないかと後悔も浮かんでくる。もっと率直に書けば「あの頃の恐怖」「あの時のふがいなさ」が思い出されてトラウマがよみがえる。きっとそういう本だと思って避けたのである。そして実際にそういう本だった。
朝比奈氏が最初に赴任した高校が「教育困難校」だった。その後「進学高校」も経験したようだが、最初の驚きを問題意識として持ち続けた。「教育困難校」とは著者の言葉で、一般によく「底辺校」と言われる高校のことだ。ここで取り上げられるのは「全日制普通科高校で入学に必要な学力が地域最低クラス」で「不本意入学生徒」の多い学校を指している。
「職業高校」(商業、工業、農業、水産、家庭等)も「偏差値」的には高くない学校が多いが、中には目的意識の高い生徒もいる。資格取得や検定試験等にマジメに取り組むと、良い就職先が見つかることが(少なくとも20世紀には)多かった。「夜間定時制高校」は倍率が1倍にならないことが多く、公立高校では全員合格になる。従って「合格偏差値」を出すことが無意味。「底辺校」にも入らない「ランク外」である。また東京に多い「多部制定時制高校」も同様。
目次を紹介するのが手っ取り早い。章と節だけ。
第1章 「教育困難校」とはどのような高校か
1 高校入試は、多くの人にとって人生最初の試練である 2 「教育困難校」とは何か
第2章 「教育困難校」に通う生徒たち
1 「教育困難校」の日常 2 「教育困難校」の典型的な授業風景 3 生徒の学力や意欲はどのようなものか 4 定期試験にも独特の慣習が存在する 5 「教育困難校」の生徒たちの類型を考える 6 「教育困難校」の生徒たちの家庭環境
第3章 「教育困難校」の教員たち
1 「教育困難校」特有の忙しさの原因 2 「教育困難校」教員が陥る心性
第4章 「教育困難校」の進路指導
1 高校は学力により進路指導も全く異なる 2 教育情報産業から見た「教育困難校」の進路指導の変遷 3 「教育困難校」で実際に行われている進路指導
第5章 脱「教育困難校」を目指して
先駆的な脱「教育困難校」改革の動き
第6章 それでも「教育困難校」は必要である
1 「教育困難校」の存在意義 2 「教育困難校」の将来のために、今、必要なもの
いやいや、「オールアバウト教育困難校」という感じの本である。必要な情報は大体書かれている。例えば生徒の類型を挙げておく。①荒れた行動を取る「ヤンキー」タイプ、②コミュニケーション能力や学習能力に困難さがあるタイプ、③不登校を経験したタイプ、④急増する外国にルーツを持つタイプ、⑤不本意入学をしてきたタイプ 以上5つである。
それぞれ詳しく分析されるが、それは本書を読んで欲しい。自分はここで取り上げられた「教育困難校」は経験していない。しかし、80年代に「荒れた中学」と「再建」を経験した。90年代以後は商業高校や夜間定時制高校、三部制総合学科定時制(チャレンジスクール)で勤務した。だから「荒れたタイプ」や「発達障害」「不登校」生徒は数多く経験した。また「外国ルーツ」の生徒も何人もいた。だから書かれていることが生々しく眼前に浮かび上がって来て困った。
最初に出てくるが、朝比奈先生には「後悔を伴って忘れられない言葉が2つある」。1つ目は「先生はなんで私のことにそんなに一生懸命になるの?」である。著者は「生徒の面倒を見るのは当たり前じゃない」と冗談めかして答えてしまった。今なら「あなたが大切だから。あなたは素晴らしい存在だから」と言えば良かったと書いているが、それはちょっと出て来ないだろう。
もう1つは「先生、いくら勉強してもわかんない人っているんだよ。先生にはわかんないと思うけどさ」である。これを言われたら多くの教員は口ごもるしかないだろう。家庭の経済的困難、発達障害、親の病気(ヤング・ケアラー)など、「出来ない子」は多くの困難を背負っている。教員は大体が進学高校出身だし、勉強が嫌いな人が教える立場になるわけがない。超有名大学希望生徒を教えるのも大変だろうが、多くの教員は「教育困難校」に配置されてカルチャーショックを受ける。そして中には心身を病んだりする人もいるのである。
ただし、僕はそういう言葉に当意即妙の返答をしなくてもいいんじゃないかと思う。そんなことはなかなか出来ない。でも人間は「言語コミュニケーション」だけでわかり合うのではない。むしろ「非言語的コミュニケーション」の役割の方が大きい時もある。教員が逃げているのか、それとも「よく言えないけど、なんだか誠実に対応しているか」は非言語的に伝わるのではないか。だから教員は「楽しそうに授業する」のが大事だと思う。
全部書いても仕方ないので、是非読んで考えて欲しいと思う。高校や中学の教員もだが、教育官僚や各界のリーダー層に考えて欲しい本だ。何しろ高校生でアルファベットも書けない生徒に、アクティブラーニングと言われているのである。小学生から英語をやるということは、今まで以上に英語の学力格差が生じるということだ。判っているのかな。
しかし、「教育困難校」は必要であるという終章の指摘は重い。そんな高校は要らないというなら、その生徒たちをどうすればいいのか。今さら中卒生徒を日本の企業が雇ってくれるのか。不本意だけど高校へ入る生徒と誰かが格闘しなくてはならない。日本社会の「後衛」として闘っている教員たちがいるのだ。それにしても、その教員集団の「分断」に心痛む。飲み会に出ないと何を言われるか怖いから、毎回飲み会に出るという話があった。大変な職場になればなるほど、あの人の授業、あの人の生徒指導がいつも…と言い出す人がいるものだ。それを克服する職場の連帯をどうやって作っていったらいいのだろうか。
著者朝比奈なをさんの名を冠したタイトルを2回書いたけど、名前で読む人はほとんどいないと思う。僕もそうだったが、大事な視点で書かれた教育書だから著者の名前を覚えておきたいと思うのである。今後も注目して読んでみるために。
教員経験者の中には同じように思う人も多いだろうが、読んでいて辛いのである。自分も似たような経験をし、もっと上手く出来たのではないかと後悔も浮かんでくる。もっと率直に書けば「あの頃の恐怖」「あの時のふがいなさ」が思い出されてトラウマがよみがえる。きっとそういう本だと思って避けたのである。そして実際にそういう本だった。
朝比奈氏が最初に赴任した高校が「教育困難校」だった。その後「進学高校」も経験したようだが、最初の驚きを問題意識として持ち続けた。「教育困難校」とは著者の言葉で、一般によく「底辺校」と言われる高校のことだ。ここで取り上げられるのは「全日制普通科高校で入学に必要な学力が地域最低クラス」で「不本意入学生徒」の多い学校を指している。
「職業高校」(商業、工業、農業、水産、家庭等)も「偏差値」的には高くない学校が多いが、中には目的意識の高い生徒もいる。資格取得や検定試験等にマジメに取り組むと、良い就職先が見つかることが(少なくとも20世紀には)多かった。「夜間定時制高校」は倍率が1倍にならないことが多く、公立高校では全員合格になる。従って「合格偏差値」を出すことが無意味。「底辺校」にも入らない「ランク外」である。また東京に多い「多部制定時制高校」も同様。
目次を紹介するのが手っ取り早い。章と節だけ。
第1章 「教育困難校」とはどのような高校か
1 高校入試は、多くの人にとって人生最初の試練である 2 「教育困難校」とは何か
第2章 「教育困難校」に通う生徒たち
1 「教育困難校」の日常 2 「教育困難校」の典型的な授業風景 3 生徒の学力や意欲はどのようなものか 4 定期試験にも独特の慣習が存在する 5 「教育困難校」の生徒たちの類型を考える 6 「教育困難校」の生徒たちの家庭環境
第3章 「教育困難校」の教員たち
1 「教育困難校」特有の忙しさの原因 2 「教育困難校」教員が陥る心性
第4章 「教育困難校」の進路指導
1 高校は学力により進路指導も全く異なる 2 教育情報産業から見た「教育困難校」の進路指導の変遷 3 「教育困難校」で実際に行われている進路指導
第5章 脱「教育困難校」を目指して
先駆的な脱「教育困難校」改革の動き
第6章 それでも「教育困難校」は必要である
1 「教育困難校」の存在意義 2 「教育困難校」の将来のために、今、必要なもの
いやいや、「オールアバウト教育困難校」という感じの本である。必要な情報は大体書かれている。例えば生徒の類型を挙げておく。①荒れた行動を取る「ヤンキー」タイプ、②コミュニケーション能力や学習能力に困難さがあるタイプ、③不登校を経験したタイプ、④急増する外国にルーツを持つタイプ、⑤不本意入学をしてきたタイプ 以上5つである。
それぞれ詳しく分析されるが、それは本書を読んで欲しい。自分はここで取り上げられた「教育困難校」は経験していない。しかし、80年代に「荒れた中学」と「再建」を経験した。90年代以後は商業高校や夜間定時制高校、三部制総合学科定時制(チャレンジスクール)で勤務した。だから「荒れたタイプ」や「発達障害」「不登校」生徒は数多く経験した。また「外国ルーツ」の生徒も何人もいた。だから書かれていることが生々しく眼前に浮かび上がって来て困った。
最初に出てくるが、朝比奈先生には「後悔を伴って忘れられない言葉が2つある」。1つ目は「先生はなんで私のことにそんなに一生懸命になるの?」である。著者は「生徒の面倒を見るのは当たり前じゃない」と冗談めかして答えてしまった。今なら「あなたが大切だから。あなたは素晴らしい存在だから」と言えば良かったと書いているが、それはちょっと出て来ないだろう。
もう1つは「先生、いくら勉強してもわかんない人っているんだよ。先生にはわかんないと思うけどさ」である。これを言われたら多くの教員は口ごもるしかないだろう。家庭の経済的困難、発達障害、親の病気(ヤング・ケアラー)など、「出来ない子」は多くの困難を背負っている。教員は大体が進学高校出身だし、勉強が嫌いな人が教える立場になるわけがない。超有名大学希望生徒を教えるのも大変だろうが、多くの教員は「教育困難校」に配置されてカルチャーショックを受ける。そして中には心身を病んだりする人もいるのである。
ただし、僕はそういう言葉に当意即妙の返答をしなくてもいいんじゃないかと思う。そんなことはなかなか出来ない。でも人間は「言語コミュニケーション」だけでわかり合うのではない。むしろ「非言語的コミュニケーション」の役割の方が大きい時もある。教員が逃げているのか、それとも「よく言えないけど、なんだか誠実に対応しているか」は非言語的に伝わるのではないか。だから教員は「楽しそうに授業する」のが大事だと思う。
全部書いても仕方ないので、是非読んで考えて欲しいと思う。高校や中学の教員もだが、教育官僚や各界のリーダー層に考えて欲しい本だ。何しろ高校生でアルファベットも書けない生徒に、アクティブラーニングと言われているのである。小学生から英語をやるということは、今まで以上に英語の学力格差が生じるということだ。判っているのかな。
しかし、「教育困難校」は必要であるという終章の指摘は重い。そんな高校は要らないというなら、その生徒たちをどうすればいいのか。今さら中卒生徒を日本の企業が雇ってくれるのか。不本意だけど高校へ入る生徒と誰かが格闘しなくてはならない。日本社会の「後衛」として闘っている教員たちがいるのだ。それにしても、その教員集団の「分断」に心痛む。飲み会に出ないと何を言われるか怖いから、毎回飲み会に出るという話があった。大変な職場になればなるほど、あの人の授業、あの人の生徒指導がいつも…と言い出す人がいるものだ。それを克服する職場の連帯をどうやって作っていったらいいのだろうか。
著者朝比奈なをさんの名を冠したタイトルを2回書いたけど、名前で読む人はほとんどいないと思う。僕もそうだったが、大事な視点で書かれた教育書だから著者の名前を覚えておきたいと思うのである。今後も注目して読んでみるために。
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