尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「非言語的表現」のリテラシー-広島県の中学生自殺事件④

2016年03月17日 00時27分08秒 |  〃 (教師論)
 広島県府中町のケースを通して、「ではどうすればいいのか」ということを幾つか。もちろん、即効性がある対策があるわけもないのだが、いくつか論点を提示しておきたいと思う。まず大事なことから。僕は今までに書いた中で、「内規変更問題」や「生活記録引き継ぎ」という論点を指摘した。そういうことは学校運営上の問題だけど、それらの問題があったとしても、担任教師が生徒から間違いだと聞きだしていれば、そこで問題は解決したわけである。本人は万引きに関わっていないのだから、本人が認めたはずがない。では、どうして認めたと誤認してしまったのか。

 生徒が何と答えたのか判らないが、「言語による明示的な表現」としては否定しなかったのだろうと思う。「僕は関係ない」と明確に答えたのなら、以後の展開は変わっているのだから、そこは間違いないだろう。しかし、万引きには関わっていなかったのだから、「非言語的表現」として「何を言われているのか判らない」「僕は何も悪いことは関係ない」と身体で表現していたはずだと思う。教師がその「非言語的表現」の真の意味を読み解くことが出来なかったのである

 「非言語コミュニケーション」(non-verbal communication)は、どの文化においても言語以上に重要なコミュニケーション方法だと思う。上司や親が何か言ってきて、「はい」と答えているのに、「その言い方は何だ」「その目つきは何だ」となっていくのは、実人生でもドラマなんかでもよくあることだ。言語では認めているのに、身体表現(身振り、顔つき、目つき等々)では「ホンネでは嫌だが、渋々従わざるを得ない」ということが読み取れるわけである。今回の問題でも、生徒が言語ではなく「身体表現」としては何を表わしているのかを読み取ろうとすれば、少なくとも「何かおかしい」と察知できたろう。

 ところが学校というのは、「きちんと発言する」「論理的に表現する」といったトレーニングをする場だから、教師の側は「生徒はきちんと発言するはず」だと思い込みやすい。確かに生徒会の選挙に出るとか、部活の部長を決めるとかの場では、「嫌とは言わない」ことが「事実上の受け入れ」であることも多い。だから、教師は「嫌とは言わせない」テクニックを身に付けてしまう。今回は逆に「はっきり違うと言わなかった」から、「認めた」と思い込んでしまったのである。本当は「はっきり認めてはいない」のだから、「もっときちんと調べる必要」を感じ取るべきだった。

 どうしてそうなったのかは、今書いたような「教師的言語」という問題もあるが、他にもいろいろあるだろう。一つは「廊下で立ち話で聞いた」という点である。中学はものすごく多忙なうえ、空いているスペースがほとんどないから、小学校や高校、あるいは一般のお役所や企業のような感覚で、「どうして個室を使わなかったのか」などと難じるのは不当だと思う。だけど、「面談」と表現するのなら、机と椅子を廊下に設置して座って資料を基に話をするべきだったと思う。

 しかし、それも「多忙」という事情が背景にあるに違いない。もっとも、この「1年時から問題にする」というのは、この学年が突然変更したものだから、「自分で自分の仕事を忙しくしている」のである。学校に限らないが、「多忙」といっても自分で自分の首を絞めていることが多いのだと思う。ここで「ホンネが言える関係」が成立しているかどうかが問われる。教師の中にだって、「面倒だから今まで通りでいいんじゃないですか」と思っていた人がいるはずである。でも、そういうことを言えたかどうか。誰かが「3年間きちんとやった生徒を推薦するべきだ」などとタテマエを言い出すと、それを否定できなくなってしまったのではないか。そういう硬直的発想が出てくるのは、もしかしたら生活指導で問題が多く、「セロ・トレランス」的な対応で学校運営を行っていたからかもしれない。教師がホンネを言えない環境で、教師と生徒の意思疎通がうまくいくはずがない。

 また、「教育のデジタル化」が進められていること、教師の「成績主義」が定着してしまったことなども「教師の非言語コミュニケーションのリテラシー(読み取り能力)」の低下をもたらす大きな要因だと思う。また「自主研修」がほとんど認められなくなり、「官制研修」や「教員免許更新制度」ばかりが押し付けられていることも、同様である。だがまあ、それらは今までも書いて来たから、論点を挙げるだけにする。今後、教師はますます「パソコン画面を見て生徒を見ない」というイマドキの医者のようになっていく。教師を競わせて給与やボーナス、昇格等を決めるというんだから、校内一致して生徒対応に当たるという気風も衰えていく。教育行政がそういう方向を推し進めているのだから、今後もこういう問題は折々に起きるのである。(それも今までに書いてきたとおり。)

 じゃあ、親は、あるいは教師個人はどうすればいいのか。一つは親が「積極的に学校作りに関わっていく」しかないということである。学校や教師個々を非難したり要求するだけでは、何も変わらない。学校を変えていくためには、親(あるいは地域住民)がもっと関わるしかないんだろうと思う。教師としては、とにかくヒマを作るように、自分で自分を多忙にしないことだろう。そして、生徒の非言語的な表現を読み解く能力を高める工夫をする。演劇や映画を見る、スポーツに取り組む、ボランティアなどで多くのさまざまな人に出会う等々…。だけど、それらはなかなか多忙で果たせない。でも…、新聞と本を読み続けるのは教師の義務だと思う。そして、それだけでもかなり「視野を広げる」役割を果たすはず。自分の身を守るためには、ある程度の勉強、努力も大切
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