尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

鈴木都政に行きつく問題-都政と都知事を考える②

2016年06月21日 23時20分10秒 | 政治
 都政と都知事を考える2回目。東京都の歴史はほとんど「戦後日本」の時期に重なる。その間のもっとも重要な都知事はというと、間違いなく鈴木俊一知事(1910~2010)である。美濃部知事石原知事の方が(在任時には)有名だったかもしれない。あるいは64年の東京五輪時の東知事も大事だという人もいるだろう。しかし、鈴木知事は東時代の副知事だった。実務に詳しい鈴木副知事が事実上の知事だったとも言われる。「実務に詳しい」のも道理。もともと内務官僚、戦後の内務省分割後は自治官僚で、「東京都」制度を作った人とも言われる。また「地方自治法」や「地方税法」なども、鈴木氏が中央官僚として作り上げた。地方自治の実務に日本一詳しいのも当然だ。
(鈴木俊一都知事)
 革新系の美濃部知事時代は都を離れ、大阪万博事務総長首都高公団理事長を務めていた。美濃部引退後の1979年、自民、公明、民社、新自由クラブ推薦で立候補、満を持して知事に就任し4期務めた。しかし、1910年生まれだから、就任時に68歳。3期終了時には80歳だった。1991年当時、自民党は参議院で過半数を切っていて、公明党の「80歳定年制」に配慮して、自民党は鈴木知事を公認しなかった。代わりにNHKのニュースキャスターだった磯村尚徳を立てたが、鈴木は引退せずに立候補。「老人いじめ」のような仕打ちだと世論も支持して鈴木知事は4選された。磯村擁立を主導した自民党の小沢一郎幹事長は、選挙後に辞任した。

 当時を知っている人でも、忘れているのではないかと思い、ちょっと詳しく書いてみた。では、鈴木知事はそんなに人気があったのかと言うと、そうでもないだろう。前任の美濃部知事は、政府に対抗し(あるいは先駆けて)福祉優先、住民自治を推進した。ところが任期の最後のころは、オイルショック以後の低成長時代に重なり、都政に財政赤字を残して去った。その赤字を鈴木知事の2期目で解消できたのである。だけどそれは福祉の切り下げや職員給与の引き下げなどで成し遂げたわけである。よく言えば「堅実」だが、要するに「官僚主義」の時代だった。

 3期目、4期目となると、新都庁舎の建設をはじめとして、たくさんの「ハコもの」や開発を進め、鈴木知事も結局は財政赤字を残した。湾岸地区の開発を「臨海副都心」と名付けて進めたのも鈴木都政である。そこで「世界都市博」を行うことにして退任しわけだが、都市博は青島知事によって中止された。その後も「臨海副都心」の開発は、ずっと東京都政の課題であり、だからこそ「ベイエリア」で五輪を開くという計画が出てきたのだろうと僕は思っている。
(東京都庁舎)
 今の都庁舎を作ったということもあるが、やはり現在の都政の原点は鈴木都政だと僕は思う。(なお、移転前の都庁は、東京国際フォーラムがある有楽町にあった。)それまでの経歴から想像できるように、その都政運営は「官僚主義」の権化のような、都庁が決めたからそれに従えと言う感じが強かった。前半は美濃部都政の赤字をなくすという「至上目標」があったんだろうが、後半には抑えられる人がなくなった。美濃部都政の「アンチ」だから、都民の方ではなく「都庁内の官僚機構の都合が優先」という感じで、日本中の多くの保守系知事と同じ。だけど、東京都は中央政府の動向を先駆けて実行しようと思っている。中央直結の官僚主義というのが、鈴木都政で完成形を見た。

 長くなったので今回は鈴木時代に絞って、石原時代は次回に回すことにする。最後に「青島時代」に簡単に触れておきたい。当初の自公民の枠組みに加えて、最後は社会党も鈴木与党に加わっていたので、鈴木後は与野党相乗りで候補を選ぶことになった。(というか、95年当時は「自社さ」の村山政権だから、自社はともに国政与党だった。)そこで竹下政権から村山政権まで官房副長官を務めた石原信雄が擁立された。それに反発して参議院議員だった青島幸男が立候補したのである。「選挙運動を全くしない」というユニークなやり方で支持が広がり、なんと支持基盤もないまま当選してしまった。そして公約の世界都市博を中止した。そこでエネルギーのほとんどすべてを使い果たした感じだった。

 結局、都議会に基盤も持たず、おそらく都政に対するヴィジョンも熱情もなく、本人も都民も「政治や政党の現状に対する不満」だけで知事を決めてしまったのである。そこで「悪い人ではないけれど」という状況が続き、「官僚任せ」の政策が進められていった。鈴木時代に完成されていた都庁の官僚主義は、「詳しすぎる上司」が去った後の青島時代にこそ、むしろ好き勝手、やりたい放題だったような感じがする。確かに、次の石原慎太郎都政のような「イデオロギー」的な政策はなかった。だけど、「教員の働き方」に関していえば、青島時代に「タネ」が仕込まれていたものがほとんどである。「石原になって、東京の教育はおかしくなった」と左派系の人はよく言うのだが、僕の実感からすれば、鈴木時代、青島時代から少しづつ、「競争的教育政策」への道が開かれつつあったと思う。

 今回の舛添問題はイデオロギー的な問題ではなく、本人の政治資金や海外出張の「贅沢ぶり」への批判である。それも「説明不足」や「上から目線」、「官僚的答弁」などに反感が広がり、問題が大きくなった。そのことを考えると、いかにも「都庁的なできごと」のように思う。石原、猪瀬時代に原因があるというより、「鈴木都政」以来の都の体質が舛添知事に体現されていたように思う。また、何度か書いているように、東京五輪の経費膨張の理由である「ベイエリア」の問題も、鈴木時代の「臨海副都心開発」の後始末問題である。鈴木都政のマイナス面が今も東京都政を呪縛している。
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