尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

映画「心中天網島」と文楽問題

2012年11月08日 01時06分48秒 |  〃  (旧作日本映画)
 シネマヴェーラ渋谷の篠田正浩監督(1931~)特集上映で、篠田監督の初期作品をかなり見た。新しく篠田監督について思ったこともあるが、ここでは再見した傑作「心中天網島」について、大阪市の橋下徹市長の提起した文楽協会への補助金問題とも関連して書いておきたい。

 「心中天網島」(しんじゅうてんのあみじま)は、近松門左衛門が1720年に書いた人形浄瑠璃の傑作である。それを篠田正浩監督がATG1000万円映画として1969年に映画化した。実験的な作風、鋭い社会風刺、岩下志麻中村吉右衛門の名演で傑作となった。1969年キネマ旬報ベストワン岩下志麻が主演女優賞など、この年の映画賞で高く評価された。ATGは1960年代末に、当時でも低額の1000万円で映画製作に乗り出し、お金はないが自由を求める映画人が結集した。「心中天網島」はATG製作で初のベストワン作品となった。
 
 画面からは、まず篠田監督本人と脚本を担当した富岡多恵子が電話でしゃべる声が聞こえてくる。クレジットタイトルにかぶさっている。ここで早くも「実験的方法の作品」であることが示される。単なる過去の名作の映画化ではなく、明確に現代を見据えた企画であると監督自身が示す。セットは簡素な遊郭の一室で、いとこの前衛書家篠田桃紅が書いた書が装飾に使われている。美術は粟津潔、音楽だけでなく脚本にも武満徹がクレジットされている。武満徹は篠田作品の多くで音楽を担当したが、この映画は中でも素晴らしい。この名前を見るだけで、60年代日本のすぐれた若い才能が結集して作られた作品の熱気が伝わる。篠田監督の最高傑作である。

 紙屋の治兵衛が女房のおさんがありながら、紀伊國屋の遊女小春と馴染みになる。小春は治兵衛と心中約束をしているが、おさんから手紙を貰い身を引く決心をする。一方、小春をねらう恋敵・太兵衛は金の力にまかせて小春を我がものにしようとするが…。浮世の義理と金の重みに雁字がらめの人々の、意地と誤解がもつれにもつれ、世間体を考える人々の悪意に囲まれ、二人は悲劇に追い込まれていく。映画ならではの工夫として、小春とおさんを岩下志麻が一人二役で演じた。岩下志麻は実生活で篠田監督と夫婦であり、篠田映画のミューズを数多く演じたが、中でもこの二役は素晴らしい。治兵衛にとって小春とおさんが持つ意味、引き裂かれた心をまざまざと示す。小春が客として以上に持つ愛情、おさんの小春への義理立てがともに観客にストレートに伝わってくる。

 この映画では画面に「黒子」が出てくる。文楽(人形浄瑠璃)では、人形を操る人形遣いが「黒子」として観客に見える。一方、顔を出して人形を操る人形遣いもいる。ここが世界の人形劇の中でも独特な点である。人間が顔を出すと物語に入り込めないという橋下市長の感想があった。映画は俳優が演じているし、場の転換の時間もいらないから、本来「黒子」がいる必要はない。しかし、画面では黒子が歩き回り、俳優の浜村純が演じる黒子は顔も出す。

 この演出にはどういう意味があるのだろうか。一つは文楽という古典劇のムードを出す演出があるだろう。人間が演じる「人形浄瑠璃」である。しかし、それだけではない。登場人物の周りには、もっと大きな「世界」があり、ひとりの人間はその世界で割り振られた「運命という名の物語」を誰かに操られて演じている。つまり「黒子」は「運命」や「歴史」の具象化として、象徴的に存在していると感じられる。

 文楽を学生時代に見たときに「これほど人形が生きているように見えるのか」と思った記憶がある。人形遣いが見えるということも、むしろ自然な感じがした。(人形は誰かが操っているに決まってるんだから)。人形の演じる物語とその人形を操る人形遣いを同時に見るという構造は、自分の専門である日本近現代史を見ると、全く違和感がなかった。黒子は民衆の隠喩か、あるいは運命の悪意なのか。さて、ある時非常に疲れていた時に文楽を見に行った。その時は語りが眠気を誘い、ほとんど全部寝てしまった。だから忙しいときに見ると、また寝そうだと思ってその後長く見なかった。僕は橋下市長が見に行く必要はないと思う。忙しい市長が見ても、物語に入り込めないこともあるのは仕方ない。それは文楽の問題でも市長の問題でもない。

 僕はそれより近松門左衛門原作の映画化作品を見たらどうかと思う。映画なら家で好きな時に見られるし、途中で中断してもいい。生身の人間が演じるから、現代的なテーマ性がはっきりする。名作の映画化だから、文楽や歌舞伎に負けない魅力がある。脚本がしっかりしているから、監督も演出に集中しやすい。幾つか有名な作品を挙げると、
 1954 近松物語(溝口健二)
 1957 女殺油地獄(堀川弘通) 1992(五社英雄) 2009(坂上忍)
 1957 暴れん坊街道(内田吐夢)
 1959 浪花の恋の物語(内田吐夢)
 1958 夜の鼓(今井正)
 1978 曽根崎心中(増村保造)
 1986 鑓の権左(篠田正浩)
 まだあるが、特に溝口「近松物語」、増村「曽根崎心中」などは、この篠田監督の「心中天網島」に勝るとも劣らない名作であり、心打たれる傑作だ。

 これらの映画を見ると、近松門左衛門の偉大さがよく伝わる。人形で見ると、なんだか古風な物語で、義理人情に縛られた遊郭のお話に感じられるときもある。しかし、近松の神髄は、「愛と自由」であり、虐げられた女の解放である。痛烈な身分社会批判であり、金がすべての世の中への痛打である。身分と金と世間体に縛られ、自由に愛を貫き通せない人間の悲しみが全身に伝わってくる。「天下の台所」と言われた大坂の町人の自由を求める叫びである。

 表面的には身分社会への批判はあまり出ていない。それを書いたら幕政批判になってしまう。だから「ぜいたくな町人が金に飽かせて女を我が物にしようと画策することへの批判」といった「ぜいたく町人批判」という当時でも許される範囲の物語になっている。しかし、金で縛られた女の苦悩、金さえあれば解決できるのに工面できない苦悩、そこには「貨幣」という形で表現された人間の苦しみが描かれている。金力という権力批判であり、それがまかり通る不自由な身分社会への批判である。全く他人ごとではない。カネで苦悩する今の世の中に通じる、今も滅びないテーマではないか。

 近松門左衛門(1653~1725)は、シェークスピア(1564~1616)、モリエール(1622~1673)などより遅い生まれだが、やはり市民階級の勃興の中で国民的な劇作家として活躍した。このような劇作家を生み出したことは大阪の誇りである。しかし、時代とともに「古典」として大成してしまうと、「通しかわからない」ものになっていく。それは避けられないし、それを革新していくことも大切だが、もともとのできた当時の心を尊重することを忘れてはいけない。

 僕が橋下市長に違和感を持つのもそこである。大坂町人の心意気が表現された文学をどうして粗末にするのか。文学も演劇も歴史の流れの中で「制度化」されていくが、もとは能も歌舞伎も被差別民衆の生み出した芸能である。そのエネルギーをどう現代に生かすか。問題提起は大事だが、金を掛けずには何事も成し遂げられない。日本は自国の市場がそれなりに大きいから、平気で市場にまかせろなどという。自国のマーケットが小さい韓国で韓流ドラマが世界に売れるのは何故か。関西圏は韓国と同じ程度の経済規模がある。世界をリードする文化が出ないはずがない。その時に歴史的な文化の記憶が一番大事になる。「世界無形文化遺産」の文楽は、その時に一番大切なものではないか。「文化的戦略」がない日本を象徴するような出来事は残念だ。 
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3 コメント

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『夜の鼓』もあります (さすらい日乗)
2012-11-08 08:27:42
今度の篠田特集は用があり、一度も行けませんでしたが、『異聞猿飛佐助』や『涙を獅子のたて髪に』はどうでしたか。

近松作品の映画化では、。溝口の『近松物語』もすごいですが。今井正監督の『夜の鼓』が最高ではないでしょうか。
これは、当時のことが学者や郷土史家に聞いてもよく分からず大変だったそうです。三国連太郎はどの程度の石高だったのか、有馬稲子の家はどうなのかも諸説あり、大変苦労したそうです。

篠田の卒論は、近松門左衛門だったはずです。
『心中天網島』は、黒子が主人公のようにも見えてきますね、総ての運命を操る神のような。
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夜の鼓は素晴らしいです (ogata)
2012-11-08 21:18:05
いやあ、ありがとうございます。実は検索して探して書いたのですが、そこに「夜の鼓」がなくうっかり忘れてしまいました。夜に早く終わりたいと思って書くといけませんね。「夜の鼓」は学生の時に見たときはあまり感心しなかったのですが、今年再見したら、大変立派なのにびっくりしました。

「完全映画化」という感じで、当時の風俗、大名行列なども考証して撮影されているので、史学科の学生も一度授業で見せるといい映画だと思いました。

しかし、映画全体としては、「近松物語」と「心中天網島」が良いと思っています。演出や演技、撮影等の問題もありますが、「夜の鼓」「鑓の権左」などは話に今では無理がある感じが否めないのです。それに「女優の神々しさ」と言う点で、「近松物語」の香川京子、「心中天網島」の岩下志麻、「曽根崎心中」の梶芽衣子が群を抜いていると思うからです。

「異聞猿飛佐助」は途中まですごい傑作と思わせておいて、だんだんストーリイが凝りすぎで底が割れる感じ。東西陣営のスパイ合戦と言う映画ですが、観念的すぎる感じです。実は数年前にフィルムセンターで見ましたが、疲れていて途中で判らなくなってきて寝てしまった記憶があります。「夕陽…」「涙に」の寺山修司脚本は、構図が面白く楽しく見られますし、随所に名シーンがありますが、「若手の異色作」になると思います。嫌いではありませんが。「私たちの結婚」の方がいいかもしれません。

篠田監督は、大島、吉田と「松竹ヌーベルバーグ」の中で論じる人と言うよりは、大映の増村保造、東宝の岡本喜八、東映の沢島忠などと並んで、新感覚の現代風スピード感と当時言われた日本の新人群の中で論じられべき人だと思いました。大島の政治性、吉田の観念性という、世界映画史上に突出した二人と、同じ会社だからというだけで比較しようとするから、立ち位置が決めにくくなるのではないかと思いました。
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『夜の鼓』は (さすらい日乗)
2012-11-13 08:47:14
篠田と今井正は、好きなので再度書きます。
『槍の権左』は論外ですが、『夜の鼓』はすごいと思います。有馬と森が性交していないのに仇討ちされるのは無理がありますが、長期に単身赴任された妻がよろめくのは、現在でも通用する話だと思います。友人は「有馬の美しさが最高だ」と言っていました。因みに、歌舞伎でこれを見たことがありますが、最後の敵討ちの場面はなく、歌舞伎でも無理な筋書とされたのでしょう。

『異聞猿飛佐助』は、脚本が福田善之という娯楽映画は素人なので、筋が大変分かりにくくなっているのと高橋幸治が頭が回るように見えないのが欠点ですが、この作品のリズムが好きです。

篠田をヌーベルバーグではなく、増村らと同列に見るのは大変新しい視点ですが、篠田が一番ライバル視していたのは、大船の先輩中平康だと思います。
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