尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

中公新書『大塩平八郎の乱』を読む

2023年01月03日 22時29分07秒 |  〃 (歴史・地理)
 中公新書12月新刊の藪田貫(やぶた・ゆたか)『大塩平八郎の乱』をさっそく読んでみた。あまりにも詳しくて、多くの人になかなか勧めづらい本だったけど、歴史をきちんと考えたい人は頑張る価値がある。自分でも驚いたのだが、大塩平八郎の乱が何年に起きたのか、もう忘れていた。1837年(天保8年)に大坂で起きて、一日も持たずに鎮圧された。もちろん天保時代に起きたことは覚えているけど、考えてみれば詳細はもともとほとんど知らず、授業でも通り一遍のことしか教えてなかった。大坂の事件だから、土地勘がないのである。それにもともとこの事件は乱そのものより、その影響の方に大きな意義があった。

 大塩平八郎(1793~1837)は「大坂町奉行所元与力」であり、「陽明学者」である。それが教科書に出て来る大塩の公式的「肩書き」になる。この「与力」(よりき)というのが判らなかった。どのくらいエラい役職なのだろうか。武士には違いないが、大坂城を守る役職ではない。町奉行所なので、要するに町奉行の下で捜査、裁判にあたる。三権分立じゃないから、大阪府警と大阪地裁の幹部職員レベルだろうか。偉いといえば偉いけど、悪人相手の仕事に飽きていたのも確からしい。
 
 当時の有名な文人、賴山陽(らい・さんよう)が師にあたる儒学者菅茶山の杖を道中でなくした時、大塩が直ちに捜索して見つけ出したというエピソードが出て来る。盗賊方を務め配下の手下もいるから、遺失物を見つけ出すぐらいすぐ出来たのである。大塩には自ら「三大功績」と呼ぶ「業績」があり、それは今から見ればどうかと思うのもあるが大坂市民にも知られた名前だったらしい。しかし狷介な人柄もあって、上司ともいろいろあった。この本には近年明らかになった史料がふんだんに使われていて、ずいぶん当時の奉行所や与力社会の内情が明らかにされている。
(大塩平八郎の肖像画)
 大塩には有名な肖像画があり教科書にもよく出ている。これは江戸後期の知られた画家菊池容斎という人が描いたもので、どういう経緯で描かれたのか不明だという。画家富岡鉄斎旧蔵のものだが、東北大学図書館で「最近原本が見つかった」という。これを見ると、いかにも学問に厳しい文人風である。1824年に独学で修めた陽明学を教える洗心洞を開いた。そして1830年には与力職を養子に譲って隠居した。といっても大塩はただの学者ではない。当時の儒学の総本山である江戸の林家に接近し、経済難に際して1000両もの大金を融通している。独自の人脈、金脈を持っていたのである。そして水戸藩にも接触していた。

 そんな大塩が何故武装蜂起に至ったのか。「百姓一揆」も一種の様式化されたもので、江戸時代には武装闘争など誰の頭の中にもなかっただろう。まさに島原の乱(1637年)以来、200年目の大反乱であり、大坂で市街戦が行われたのは大坂夏の陣以来である。そこへ至るには大きな心理的ステップがあったはずである。それは著者にも完全には不明だが、恐らく当時の「天保の飢饉」が背景にあっただろうとする。単に困っている人がいるというレベルの問題ではなく、儒学には「国家の指導者が間違っているので、天が代わって罰を与える」、つまり「天譴論」的な考えがある。そして陽明学だから「知行合一」である。
(大塩平八郎の乱を描いた当時の画像)
 ただそのようなタテマエだけではなく、実際には当時の大坂政界の動きと密接に絡んだ「私怨」もあった。特に大坂東町奉行の跡部良弼(あとべ・よしすけ)を襲撃するという明確な目的があって、奉行の巡行が予定されていた2月19日早朝に決起することになった。跡部は旗本ではあるが、実は唐津藩主水野忠光の6男で、時の老中水野忠邦の実弟だった。大塩の乱は単なる大坂での暴発に止まらず、幕閣中枢を指弾するものだった。大塩は飢饉中に大坂から米を江戸に送ろうとする幕府の方針を批判していた。そして様々ないきさつから、今までの奉行との関係も悪くなっていたのである。

 しかし乱そのものはあっという間に終わってしまう。昔の保元の乱平治の乱、あるいは昭和の二・二六事件などより、ずっと小さかった。砲を借りだして実際に町中に発射し大火事となったので、本来救うべき対象の町民に大きな犠牲が出た。奉行所関係者に死者はなかったのに対し、火事による町民の犠牲者270人以上、大坂の5分の1を焼き7万人が焼け出されたという。参加者は洗心胴門人の他に関係する村々から動員されたものを合わせて総勢300人を越えなかった。本当は被差別民の動員を計画していたらしいが、そのことをどう考えるべきか。やはり大塩は「支配者」の側であり、支配者内部の矛盾だったというべきか。

 大塩は反乱終結後も40日余り潜伏して逃げ延びた。昔はその理由が判明していなかったが、近年になって大塩は決起前日に江戸に建議書を送っていたことが判った。それは中身にお金があると思われて、飛脚に開けられて箱根で捨てられた。それが見つかって、伊豆代官の江川英龍に届けられ書き写された。それが発見されたのである。大塩は江戸に送った建議書が取り上げられ、返事が来ることに期待を掛けていたのである。それは甘い幻想だったが、単なる武力放棄に止まらない政界工作も志向していたのである。
(渡辺崋山「鷹見泉石像」=国宝)
 興味深いエピソードは多いが、当時の鎮圧側の総責任者というべきは、大坂城代の土井利位(どい・としつら)だった。古河藩主で後の老中、というよりも雪の結晶を研究した「雪の殿様」として有名な人である。そして家老として土井に仕えた鷹見泉石も大坂にいた。有名な渡辺崋山の「鷹見泉石像」で知られる。この絵は描かれた時代が一番新しい絵の国宝に指定されている。絵の中で鷹見が持っている脇差しは大塩の乱鎮圧の功に対して土井から拝領したものなのだという。

 大塩平八郎の乱はすぐに終わったし、乱そのものはむしろ傍迷惑なものだった。「救民」を掲げて、かえって多くの難民を生んだ。だが焼け出された市民の中にも、大塩を崇める声が高かったという。この後、同様な小規模の乱が相次ぐが、大塩の影響だろう。そういうこと(権力機関襲撃)が出来るんだというモデルケースになった。日本においては、この乱がバスティーユ監獄襲撃のようには広がらなかった。しかし、幕末の「世直し」運動の源流になったということは言える。
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