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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

『飢餓俳優 菅原文太伝』(松田美智子著)を読むー菅原文太の内面に迫る

2025年03月24日 22時14分34秒 | 〃 (さまざまな本)

 松田美智子飢餓俳優 菅原文太伝』を興味深く読んだ。2021年に刊行され、2024年12月に新潮文庫に収録された本である。菅原文太(1933~2014)の主要な映画作品は、ほとんど同時代に見ている(見てなくても知ってはいる)から、とても懐かしかった。しかし、菅原文太がどのような人生を送った人か、ほとんど知らなかったことに気付かされた。恵まれない家庭環境の中、戦時下に子ども時代を送り、「人を信じない」人生観を持つようになった。大スターになった後も、群れずに孤独を貫き最後は農業と反原発運動に情熱を注いだ。家族(妻、娘)の取材を得られず、ついに解明されない謎も多いがまずは渾身の評伝だ。

 菅原文太の代表作と言えば、まず『仁義なき戦い』。『仁義なき戦い』を見てない、あるいは好きじゃない人はこの本を読んでも面白くないだろう。この作品が作られるまでの経緯は、それ自体が映画になるぐらい面白いし証言が交錯する。東映実録映画を連続して論じた時に、70年代東映映画についてずいぶん書いたのでここでは映画の詳細は省略する。とにかくこのシリーズは音楽や撮影、脇役ひとりひとりの輝きなど素晴らしい。73年1月に公開され、すぐに大ヒットした。僕は多分その後銀座並木座で見たと思う。第1作『仁義なき戦い』以上に、第3作『仁義なき戦い 代理戦争』、第4作『仁義なき戦い 頂上作戦』が凄かった。

(『仁義なき戦い』)

 このシリーズで、菅原文太は1973年度のキネマ旬報主演男優賞を受けた。(当時ブルーリボン賞は中断されていたが、1975年に再開されたとき、『県警対組織暴力』や『トラック野郎』シリーズで主演男優賞を受けた。)高倉健が演技賞を受けるのは、1977年の『幸福の黄色いハンカチ』以後のことで、東映任侠映画時代に演技が評価された男優はいなかった。当時の東映トップ俳優は高倉健だったが、73年をきっかけに興行価値だけでなく演技賞でも菅原文太が頭一つ抜けたのである。監督の深作欣二とは1972年の『人斬り与太』シリーズで組み、その暴力描写の新しさが注目されていた。二人ともブレイク直前の熱さがたぎっていた。

(『人斬り与太 狂犬三兄弟』)

 しかし、そこまでの道のりは長いものだった。恵まれない子ども時代、大学時代にファッションモデルになった経緯、新東宝にスカウトされ芸能界へ。高身長若手を集めて「ハンサムタワー」と名付けられたが、なかなか売れなかった。そして新東宝は倒産、文太は松竹へ移るが、女性映画中心の松竹でも浮かび上がれなかった。東映以前の映画は新東宝の映画を上映する企画などで時々見ることが出来る。松竹映画『見上げてごらん夜の星を』は定時制高校に通う坂本九を主人公にした映画だが、何と菅原文太が定時制高校の教師役で出演している。見てる人は少ないと思うけど、経験者から見ても違和感のない演技で忘れられない。

(『見上げてごらん夜の星を』=左端菅原文太)

 1967年に東映に移って以後もしばらくは雌伏の時を過ごすが、次第に菅原文太が必要にされる時代が近づいてくる。任侠映画にも出ているが(『緋牡丹博徒 お竜参上』で藤純子を相手にした有名な別れのシーンがある)、スタティック(静的)な任侠映画の演技には向かず、風貌からしてもダイナミックな現代劇に向いていた。そして大人気俳優になっても、一つところに安住できず実録映画以外を求めた。その結果『トラック野郎』というもう一つの大ヒットシリーズが始まる。ところが実録映画も『トラック野郎』も関係者に説明抜きに出演を拒否して終わってしまった。トラック関係者との絆も切れてしまったという。その理由は判らない。

(『トラック野郎』シリーズ)

 そこら辺は著者も自分の気持ちを監督や脚本家にフランクに伝える場があればと書いている。しかし、そのような飲み明かして関係を修復するようなことをしなかった。飲めないわけでもないから、付き合いづらい生き方だったということになる。結婚の経緯も不明である。妻となったのは9歳年下の文学研究者で、なんと立教大学文学部を卒業して福田清人氏の下で堀辰雄と萩原朔太郎の本を書いていた。(福田清人編の『人と作品』というシリーズが清水書院から出ていた。)妻の父は立教大学文学部教授の英文学者飯島淳秀(いいじま・よしひで)という人で、角川文庫にあった『雨の朝巴里に死す』(フィッツジェラルド)や『ベン・ハー』の翻訳者だった。大学時代に最初の結婚をしていて、文太とは再婚だという。ちょっと知り合った経過が想像出来ないが不明である。

(晩年の講演活動)

 僕は菅原文太の家庭生活、特に妻の影響が非常に大きいように思った。それに子どもが3人いて、東映の実録映画や『トラック野郎』(面白いけど、下ネタ満載)ではなく、NHK大河ドラマ『獅子の時代』(1980)などに出たかったんじゃないかと思う。子ども向きじゃない映画で活躍するより、お茶の間で話題のテレビの主役の方が子どもに誇れるだろう。特に長男は溺愛したと何度も書かれていて、やがて長男が芸能界入りを希望し、悲劇的な事故死したのが人生を変えた。もし長男が映画やテレビに出ていたら、文太も引退せずに子どもを見守る意味で芸能活動を続けたんじゃないかと書かれている。納得できる見解だと思う。

(最後の主演作『わたしのグランパ』)

 2003年の筒井康隆原作、東陽一監督『わたしのグランパ』が最後の主演作となった。これは石原さとみのデビュー作である。そうだったっけ? 僕は見てるし、文太ははまり役だと思ったけど、細かいことは忘れてしまった。また見てみたい気がする。そして東日本大震災以後は完全に芸能界を去って、農業と平和運動、反原発運動が中心となった。その前に20世紀後半に飛騨にログハウスを建てて住民票も移したという。それが「オーク・ヴィレッジ」の隣だという話。新宿の紀伊國屋書店であった展示即売会に行って、意気投合したらしい。そう言えば紀伊國屋にショールームがあったなあ。(僕はオーク・ヴィレッジに泊まったことがある。)

 映画関係者にはこの晩年の活動は理解されていないという。しかし、長男を先に失ったという(他に二人の娘がいるが)境遇を考え、芸能界より「いのちを守る」活動に心惹かれたのは僕にはよく理解出来る気がする。とにかく謎が残る人生で、松方弘樹、梅宮辰夫のような豪快そのものの役者とはちょっと違う。といっても東映スターだったんだから、当然「ヤクザ」業界との付き合いもあったわけである。しかし、文太自身は飲み会より本を読んでいたいようなタイプだったらしい。


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